2007年2月24日
若き日の美術家たち
愛知県美術館の企画展。所蔵作品から「若き日の美術家たち」と題して、20世紀の画家の20代の作品を中心に紹介した展覧会。とはいえ、若さ故の初々しい20代作品ばかりでもないし、作品として見応えのあるものも多くて、あらためて愛知県美のコレクションの質の高さを垣間みた感じがする。所蔵作品展ということで入館料は常設展の価格で、いつもの常設展示にそのままつながる構成になっている。余談だが、自分の勤務先の博物館もここみたいに「これから先は常設展示をお楽しみください」とひとこと表示すれば、展示スペースに関する悩みもとりあえず解決できるのになぁ・・・と思った。提案してみよう。そうしよう。
さて、展示の内容は「若き美術家たちの群像」「若き美術家たちの肖像」「若き美術家たちの挑戦」「美術家たちの若き時代、そして」という4つの章にわけられている。ポスターになっている田中恭吉の木版画「冬蟲夏草」が最初に展示されていて、それからこれらの4章がはじまっている。章ごとに気になった作品をいつもどおりピックアップしながらだらだらとメモから拾い上げることにする。
第1章 若き美術家たちの群像
ウィーン分離派のものとその影響を受けたとの画学生の同人誌「月映」が取り上げられている。ウィーン分離派のでは、レオ・プッツの「花と女」がよかった。花瓶を前に何か考え事をする女性の絵。ラフに大胆に色を置いているがしっかり形ができている。マティスよりも形と色が規律的に融合している? この人の他の作品は知らないけど、デッサンを大切にしている姿勢がうかがえて好感がもてた。そして、クリムトの「17歳のエミーリエ・フレーゲの肖像」はこの展覧会の呼び物的存在なのかな? 愛知県美にはクリムトの「黄金の騎士」があるけど、制作年を隔てた作品を比較できる点では確かにこの企画展にぴったりかも。額はじゃポニズム的な金ピカデザインでクリムトらしいけど、絵は割と素朴。クリムトの描く女性の妖婉さが全くなくて気品がある。後年の平面幾何学装飾をくみあわせた画面構成はないけれども、パステルの描写の技術はこのときから変わらないように思える。カンディンスキー37歳の版画「鏡」「夕暮れ」はジャポニスム風の切り絵のような作品。やっぱり抽象画に行ってしまってからよりもこっちの方がいいなぁと思う。後半の「月映」は、版画と詩の同人誌で、たくさんの作品が展示されてあった。東京美術学校在学中の恩地孝四郎、藤森静雄、田中恭吉の3人が作っていたとのこと。個人的には構図などで藤森作品が好みだ。よく知らないけど、今の芸大・美大でもこういう動きってあるのかな? もしかしてBTとかは限りなく同人誌に近かったりして・・・(いや、悪い意味ではなく)。
第2章 若き美術家たちの肖像
自画像、自己表現を追求した風景画、若手画家が切磋琢磨した20世紀初頭のパリの作品が並んでいる。
ワイエス21歳の自画像は、つっぱったしかめっ面をしていて表情に初々しさがある。このときから既にテンペラ画のスタイルができあがっているけど、画面右側の空間と影に技術的な未熟さを感じた。宮脇晴の18歳の自画像はその質の高さにちょっとびっくり。しっかり古典から学んでいる。今の画学生が観ていないものをしっかり吸収しているにちがいない。大沢鉦一郎26歳の自画像は強い明暗がバロック的で、グリーンの背景もおちついていて好みの絵。同じ年に描いた風景画「大曽根風景」も良かった。ただ、1919年の大曽根はこんな原野だったのか〜と、その空の抜ける青さとともに画題の方がとても気になった。浅井忠の「八王子付近の街」は31歳の作。曇天と鈍い光が雰囲気をつくっている農村風景。技術的な違いはあっても、浅井の好みと視点が変わっていないのを再確認できる。佐伯祐三19歳の自画像は、かなり意外性のある絵。薄塗りでナーバスな感じが出ている。色の使い方が面白いが、明暗で形をとらえているのがわかる。実験的な自画像なのだろうか。岸田劉生の「高須光治君之肖像」は24歳の作。明暗と量感は岸田劉生ならではという感じ。中村彝の「少女裸像」は一昨年だったかの特別展でも観た作品。うーん、やっぱりルノワールだ。でもルノワールよりもいい。他には安井曾太郎の17、18歳の時の木炭画があったが、微妙な光について研究していたのだろうなぁと思わせるモチーフと筆致。ただ、ところどころ木炭が落ちているのでは? と思うところもあった。山本鼎の木版画「漁夫」は人物と背景が同じような線で描かれているにもかかわらずしっかり立体感や奥行きが表現されているのが気に入った。木下孝則の「読書」はとてもデッサンが決まっているのに描き込みが足りなくて消化不良ぎみ。まぁ、これでいいということなんだろうけど、なんかもったいない。佐分真の「アパッシュ・シャルボニエ」はとてもいい絵だった。形としては床面の遠近など怪しいところは多々あるが、モデルのボリューム感、眼差し、黒の輪郭がとてもリアリスティックに見える。しかしガラスに明かりが反射してみづらい展示が残念だった。
第3章 若き美術家たちの挑戦
日本画と前衛の作品が並ぶ。横山大観32歳の「飛泉」は、出たな朦朧体! と言いたくなる作品。ならではの透明感とフォーカス・アンフォーカスのメリハリが実に効果的。中村岳陵31歳の「芦に白鷺鵜鴿図」は迫力ある屏風。屏風の折れ目部分(なんて言うの?)が竹のようにも見える。鳥はもちろん、水面と芦がとてもよく描けていた。前衛は・・よくわからない。よくわからないので書きようがないのでパス。
第4章 美術家たちの若き時代、そして
クレー、キルヒナー、国吉康雄、杉本健吉の作品が並んでいる。それぞれの作品が年代を追って変化する様子がわかるような展示。最後にこの構成ということは、これで「若き美術家」の特色を際立たせてしめくくる演出なのだろう。作風の変化はわかるんだけど、若さってなんなんだ? とわかったようなわからないような感覚のままだった。うーん、これって年配の方が観たらとっても頷ける内容なのかもしれない。自分の未熟さを感じた。ここに展示されている4人の画家の作品は実は好きでも嫌いでもない。なぜかこういうニュートラルな作品というのがある。しかし、クレーの「女の館」は何度も見た作品だが、あらためて奇麗だと感心した。厚紙に油絵というのは独特の澄んだ深みがあるように思う。
この後、つづいて常設展示に会場がつながり、おなじみのマティスの「窓」、デルヴォーの「こだま」、ボナールの「子供と猫」、クリムトの「黄金の騎士」といった絵がある。野口弥太郎の「門」は、はて、ここで観たのだっけ? どこか別の会場で観たような気がするけど自信がない。割と筆致の粗いどうということのない絵だけれど、空間と人物のバランス、想像できる人間関係などが面白くて、実は好きな絵かも。ほかに今までそう気に留めていなかった作品では、海老原喜之助の「雪山と樵」のナイフで表現した雪山が地層の褶曲に見えてならないのだが、その圧倒的な存在感は観ていて心地よいと思った。樵を描くのなら平面的な樹木がもうちょっとしっかり描かれていると山と森と人のバランスがとれたのになぁ・・といつもながら勝手なことも考えてしまったのだが。
常設展示はそのまま意味不明の現代美術を経て、小さい展示室へと続く。杉戸洋という人の演劇の舞台だけを描いた柔らかいタッチの大きな絵があった。舞台だけとはいえ、近寄るとこまごまと何かが舞台の上に描いてある。注意はひくがよくわからない。面白い・・のか? 不快感はないけどなんか物足りない。鑑賞者を巻き込んだという積極的な感じはなく、鑑賞者になにもかも任せてしまったような無責任さが物足りなさを感じさせるのかもしれない。まぁ、自分にとってはこの程度しか感じる事ができなかった。きっと作者はやさしい人なんだろうなぁ。あと、木村定三コレクションから若手美術家の作品を集めた展示があったが、これもひそかに企画展にからめた内容なのだろうか。部屋ではお客さんと美術館員が三重出身の作家について話していた。作品自体はあまり好きではない。けど、つくづくパトロンがいるってのは表現者にとって幸せだよなぁ・・と思った。
2007年2月17日
アニマルワンダーランド -絵本に描かれた動物たち
ブライアン・ワイルドスミスと飛鳥童の絵本の原画を展示している展覧会。おかざき世界子ども美術博物館は東名高速をおりて南の方へ行ったところにある。はじめは名前だけ聞いて岡崎市美術博物館(マインドスケープミュージアム)と同じ敷地にあるのかと勝手に思っていたけど、全く違う。岡崎インターを挟んで正反対の位置関係で、カーナビさまさまである。場所は違うけれども、岡崎市美術博物館とおなじく緑の多い公園の中に建てられていて、環境づくりがしっかり考えられている感じがする。親子造形センターという施設も一緒になっていて、THINK(考える)、SEE(見る)、DO(作る)をキーワードに子供たちが積極的に関われるように設計されている。もっとこういう施設があればいいのになぁと思う。略称なのか「おー!」と描かれたロゴデザイン(ロゴは「おー!」の上のコインのフロッタージュみたいな方なのかな?)も目を引いてかわいい。
展示室の入口に小さなカウンターがあり、そこでチケットを買って入場。アプローチには動物のシルエットクイズ。それを抜けるとシルエットクイズの答えのワイルドスミスの絵が並んでいる。なるほど、犬はこうなっていたのか、などと感心する。大きな展示室の中央には塗り絵のプレイルームのようなコーナーがあり、ちびっ子たちと親たちが遊んでいる。ここの係の人は大変だなぁ。展示壁にはワイルドスミスの絵本、「どうぶつ」「うさぎとかめ」「くまごろうのだいぼうけん」などの原画が並び、譜面台には絵本がある。譜面台の絵本の他のページが気になってページを繰っていたけどもしかしてあれはダメだったのかな(と後で思った)?
原画は不透明水彩で大胆に描かれていてかなり荒々しい画肌。かなり修正の跡も多くて、剥落もある(修復されることはないのかな)。印刷を前提にした絵本の原画はこんなものなのか・・・しかし、だからこそ手荒く修正された箇所から作者の試行錯誤が伺い知れて興味深い。生き生きとした筆致が見えるうえに、指紋までぺったりとついていたりして、作者の「手」が感じられるのも原画の魅力かもしれない。手塚漫画の原画原稿の展示を見た時と同じような感動があった。
ワイルドスミスの描く動物はトレードマークの色彩もさることながら、動物の生物学的な特徴を決してないがしろにせず表情豊かに表現しているところが魅力だ。これは手塚治虫に通じる魅力かもしれない。自然への愛情のような親しみが画面全体からにじみだしてる感じも手塚的かも。絵には擬人化しつつも、しすぎていないリアル感があって、そのうえ一瞬の動きの描写が的確。子供向けの絵本だからこそ大事にすべき洞察の聞いた観察眼がある。「そうそう、うさぎってこうなんだよねぇ」と一緒に行った妻と頷きながら見た作品ばかり。かといって描写だけではなく、当然ながら話や構図の構成もよく練られているのがよくわかり、感心するばかり。
ワイルドスミス作品にたいして数は少なめだが、別室で飛鳥童の絵本原画も展示されている。「まだかな まだかな しろくまこぐまのまちぼうけ」というホッキョクグマの絵本。こちらはワイルドスミスの原画の粗さとは正反対の丁寧さで、原画としての展示も意識されているよう。キャンバスにアクリルで描かれている。氷上のホッキョクグマ親子を定点観測のようにして横長の画面に描いている。この人の他の作品を知らないのでなんとも言えないが、この作品については静かな印象が強い。ワイルドスミスとは全く違ったアプローチながら北極の広い氷やオーロラの光など自然に対する愛情が表現されている。しかし、この展覧会ではワイルドスミスのインパクトが強すぎて飛鳥童の印象が薄くなってしまった。
この展覧会を見終えてショップでワイルドスミスの絵本を1冊購入。展示されていた「くまごろう」は売り切れ。それにしても子供対象とはいえ、まるで雑貨屋のようなミュージアムショップにはいささか驚いた。うーん、大人の視点でみちゃいかんのかな。でも買うのは子供じゃなくて親だよなぁ。
親子造形センターという名のウィングにはいろいろ体験できる施設がそろっていて親子連れで大変にぎわっていた。そんななかで目に留まったのはEBアートというコーナー。石膏板に絵を描いてそれを電子線で定着させるらしい。絵は凹凸ができなければ何でもいいらしく、鉛筆やサインペン、水彩絵の具が用意してある。土台になる色んな石膏板(板状ではないものもある)を購入して(安いヨ)描いてから仕上げてもらう仕組み。ちびっ子たちに混じって2つほど作ったが、その出来の良さにはビックリした(この日に作ったものの詳細は一日一画で)。こういう場所が身近にあるといいなぁとつくづく思った。子供が居たら間違いなくつれてくるだろうなぁ(親が夢中になるけど)。
さて、帰ってからワイルドスミスの経歴について調べてみたら、ちょっと驚いた。はじめは化学の道に進もうとしていたらしい。ところが中退して美術学校へ行く。兵役を経てなぜか音楽の学校で数学教師をやっている。その後結婚してしばらくして、奥さんにやりたいことをやってはどうかと言われたのをきっかけに教師を辞めて画家になる。直後に奥さんから妊娠の事実を聞かされ絵本作家に・・・ということらしい。彼の経歴を知って、サイエンス、美術、子供向けのなにか・・・と、否応無しに自分の状況に照らし合わせてしまい複雑な気持ちになった。やはり本当にやりたい事をやらなければ人生台無しになるかもしれない。一瞬、こんな経歴がありえる英国がうらやましくなったが、日本でも不可能な事ではない。本人がどうであるか次第なのは言うまでもない事だ。それにしても、教師の仕事を辞めて絵描きになってすぐに妊娠を打ち明ける奥さんもスゴいなぁ。この話を聞いて彼の作品の魅力がさらに増したような気がする。伊豆高原のワイルドスミス美術館にもそのうち行ってみたい。
2007年2月12日
祝画三昧
名古屋は池下駅近くにある古川美術館の企画展。家から散歩がてら歩いて見に行った。平和公園から自由が丘、覚王山日泰寺を経て新旧の住宅街を縫うようにして歩く道は実に楽しくて、この規模の美術館はちょっとした休憩にはぴったりだった。ちなみにこの後に寄った為三郎記念館でのお抹茶もとてもよかった。古川美術館入館時にお茶の割引券がもらえるのも嬉しい。今回のお茶菓子はちかくの梅屋さんのもので、これまた大当たり。
さて、展覧会は年始らしくおめでたい絵をテーマごとに集めたもの。テーマは「願う」「吉祥の装い」「めでたきもの」「祝画」「四季を祝う」「生命讃歌」。どうめでたいのかの解説付きで、その解説も勉強になって結構面白い。以下、気になったものをピックアップ。
川端龍子「長春花」
実は龍子の作品ってあまり観たことがなかった。大胆な筆運びと安定した構図に貫禄がある。花の赤と下の器のどっしりした赤の配置が心地よい。
六谷春樹「一富士二鷹三茄子」
切り絵? 初夢に見るとめでたい三つをきれいに配置した作品。これをデザインしたグッズもうられていて、たしかにこりゃめでたくていいなぁと思った(けど買わなかった)。
川合玉堂「松竹梅」
地味ながら最も印象に残った作品。川合玉堂にしては軽い筆さばきで気楽に描いたような感じがする。松の幹を画面の中央左寄りにデーンと置いてその背後の上半分に竹、全面の下半分に梅を自然に配置してそれぞれが存在感をもっている。解説によると、常緑樹の松は安定不変の常磐木として、生長の速い竹は子孫繁栄の象徴として、いち早く花をつける梅は春の魁としてそれぞれ縁起の良いモチーフとのこと。中国では歳寒三友といってこれらを尊ぶという。歳寒は困難な時こそ物事の本質が見えること、三友は正直・誠心・博学な友、ということで厳しい中でも有益になるものの例えなのだとか。
前田青邨「祝ひ日」
画面中央に非常に大きく描かれた下弦の半月と、左下に小さく描かれた月を愛でる舞人・楽人たち。まるで映画E.T.の有名シーンみたいなバランスに、驚かされるとともに奇抜な画面構成に感心したが、はて、月見にしては半月はおかしい、なんだろう? とわからなくなった。これまた解説によると、「祝う」は「斎う」で、神の力を借りて大切なものを守る、身を清めて神や祖先の霊を祀り、自分たちの生活の無事とこれからおこる物事の安泰を期すことだという。月を描いて「祝ひ日」とはどういうことかと思ったが、日が昇る前に現在・未来を「斎う」ということなのかな。画面として秀逸で、さらには一見してはわからない敬虔な意図がこめられている作品は結構好きだ。
川端玉章「端午節句」
幟のほかに鯉のぼりがのたうっている。背後に富士。幟のひとつに描かれている鐘馗は玄宗皇帝の故事に基いた疫鬼を追い払う神とのこと。菖蒲は尚武、勝負に通じるということでなるほど男の子の節句なのだとか。よく見ると荒々しくのたうつ鯉のぼりは背景の富士山よりも高い位置に描かれていて、よく考えられた絵だなぁと感心。祝画のめでたさはこうした土着信仰みたいなものがあるから成り立つんだろうし、いい作品は画題にあらわれる文化的な差異よりも深いレベルで普遍的に人間が持つセンスに響くところがあるのだろうと思う。そういえば、ずっと前に鯉のぼりの絵を描こうと山間部の鯉のぼりを取材したことがあった。結局まとまらなくて放置しているのだけど、これをヒントにひっぱりだしてもいいかなぁ・・・。
2007年1月12日
ヨーロッパ肖像画とまなざし -16-20世紀の顔-
もう半年もあいてしまって10以上も下書きのまま(公開せず)で停滞しているこの展覧会メモ、年が変わって最初にでかけた展覧会の感想から再スタートします(残りはそのうちに・・・)。
たまたま名古屋の中心部で仕事があって、早く終わったので名古屋ボストン美術館の夜間開館(しかも夜間割引で200円引き)を利用して観てきた展覧会。午後5時に栄から金山に移動して美術館に行くとガラガラでちょっと拍子抜け。せっかく夜間開館してくれてるのにみんな行かないの?! ルネサンスやマニエリスムからキュビスムまでの実に濃厚なヨーロッパ人物画の数々をほぼ貸し切り状態で鑑賞できるのはまことにありがたい。この展覧会、昨年の秋からやっていてずっと気になっていたのだけど、どうも名古屋ボストン美術館の展覧会は会期が長いせいか、ついついいつも先延ばしになってしまい、今回も同様で足を運ぶのが遅くなってしまった。この肖像画展は16〜20世紀の絵画とあって、画家とモデルの意識が時代で変わって行くことや様々な画家の視点が体系的に見えて面白い。
さて、展示内容は実にシンプルで16世紀からはじまって1世紀ごとにセクションが区切られている。ここまではっきりと年代別に展示される展覧会って意外と珍しいかも。というわけでその年代別に気になった作品について書き出してみることにする。
「第1章 16世紀の肖像画」
ネーデルラント、ドイツの北方絵画とイタリア絵画が大小あわせて9点。なんといってもティツィアーノの「本を持つ男の肖像」の存在感が圧巻。パッサロッティの「リュートを奏でる男の肖像」はバロック初期の雰囲気たっぷりだがどうもリュートの柄の表現がぎこちなくて違和感がある。デル・コンテの割と大雑把な「高い位の聖職者の肖像」は、解説によるとやや間延びした人物がマニエリスム的とあったけれどあまりそんな感じは覚えず、むしろゴッテリとしたマチエールの方にエル・グレコ的なマニエリスムに近い部分を感じた。この頃はルネサンスからマニエリスムに寄り道してバロックに至る時代、画家たちの手探り感が漂っていて面白い。
「第2章 17世紀の肖像画」
濃厚な写実のオランダ・フランドル絵画を中心に10点。ヴァン・ダイクの「自画像」「ペーテル・シモンズ」の2点がなかなか興味深かった。肩ごしにこちらを振り向く自画像に昨年日本橋三越で観たベオグラード展のドガの人物画を思い出した。あれはたしかギルランダイオの壁画がインスピレーション源とのことだったけれど、このポーズの人物を肩から上だけ描くというスタイルって、ドガはもしかしてこのヴァン・ダイク作品を知っててやったのかも。そして、解説にはこのポーズはヴァン・ダイク考案みたいに描かれてあったけど、ギルランダイオ作品を参考にしていたとかってことはないかなぁ・・・誰が最初というのは大した問題ではないけど、こうして人物表現の方法を色んな画家が色んなところから模索していたと想像すると面白い。もうひとつの「ペーテル・シモンズ」は右手が大きく描き直されたのが塗りつぶした形跡からよくわかるのだが、前のままだと両手がのびていて変である。ということは、左手はどうなっていたのだろう??本人の意向か注文主のイチャモンか知らないけど、この時代の肖像画がただ似せるだけではなくなっていかにしてその人らしさを表現するかをこうしたポーズで探っていたのかも、と思う。フィリップ・ド・シャンパーニュの「ジョヴァンニ・アントニオ・フィリッピーニ神父」はポール・マッカートニーみたいな顔つきの神父が手すり越しに佇んでいるかのように描かれた作品で、手すりの端に額縁の陰が描かれていたりとその騙し絵っぷりに思わずニヤリとしてしまう。威厳をもって描かれたはずなのだが、なんとなく「してやったり」と言った笑みを神父の表情に見てしまうのは気のせいだろうか。この頃の騙し絵は迫真の描写術のパフォーマンスだったのだろうけど、騙し絵らしい遊び心も重要な要素だったんじゃないかなぁ。騙し絵と言えば、レンブラントの版画「ヤン・コルネリス・シルヴィウス」も壁からにょきっと乗り出したような姿で陰影がつけられていて、これにも遊び心がある。
ベラスケス工房の「王女マリア・テレサ」はこの展覧会のポスターにもなっている作品だけど、ベラスケスではなくて弟子たちがコピーしたものらしい。実物を見てその中途半端さにちょっとがっかり。その隣のマースの「ヘレナ・ファン・フーヴェルの肖像」は、おやっレンブラントかと思ったら違っていて、解説によるとレンブラントのお弟子さんとのこと。なるほどナットク。巨匠の弟子たちの作品ということでこの2点が並んで展示されているのが楽しい。そしてスリンゲラントの「ヤン・ファン・ムッシェンブルックとその妻」は細部の描写が実に念入りに描かれた風俗画風の肖像画。光がちょっと変で人物が強調されているのがわかるが、この頃の室内を描いた絵としてはこれが普通なのだろうか。この手の絵はついついフェルメールを連想してしまうけど、フェルメールは肖像画ではなく、やっぱりその空間というか光を描いたのだろうなぁと思った。
「第3章 18世紀の肖像画」
イギリスとフランスの絵画を中心に12点。17世紀バロックの後に見るとなんとも頼りなく見えてしまうので実はあまり印象に残っていない。クレスピの「大臣フローリウス・セネシウス」やペロノーの「男の肖像」の画面の粗さが気になってしょうがなかった。あと、ランクレの「踊り子の肖像(マリー・サーレ嬢?)」のロココっぽさが時代を感じさせる。やっぱりロココはいまいち好きになれない。レノルズの「子供を抱くリチャード・ホー夫人」はラフなスケッチにとどまっているのだけどかえって画家の目と手が見えるようで新鮮。でもきっと途中やめの未完成作でこんな風に展示されるのは本望ではないのだろうなぁ。絵ではなくて大理石の彫像なのだけど、ウードンの「男の胸像」がすごく良かった。石材中の方解石の結晶がまた額に光る汗のようで実に生々しい存在感だった。
「第4章 19世紀の肖像画」
ボストン美術館の得意とする時代? 他のセクションの倍以上の作品が並んでいて、以前に見たこともある作品もちらほら。このコーナーのはじめ、ファーブルの「男の肖像(ロザリオ・ペルシコ?)」、コンスタブルに帰属の「女の肖像」がなかなか秀逸。マネの「ヴィクトリーヌ・ムーラン」は一目見て「草上の昼食」や「オランピア」のモデルとわかって楽しいし、ゴッホの「郵便配達員ジョセフ・ルーラン」はやっぱり明るい水色の背景のどっしりとした存在感が前回見た時と同様に目に飛び込んでくる。トゥールーズ=ロートレックの「画家のアトリエのカルマン・ゴーダン」と「キャバレーのアリスティード・ブリュアン」は一方が油絵で一方がリトグラフのポスターで表現が全然違うのに同一作家の作品とわかってしまうのが面白い。やっぱりロートレックは線の画家なのだなぁとしみじみ。
このセクションではこんな感じに当然のことながら印象主義以降の近代絵画が多いのだけど、一番良かったのはなんと言ってもドガの「エドモンドとテレーズ・モルビリ夫妻」(このブログでドガ作品の評価がいいのはいつものことなのだけど・・・)。ただならぬ雰囲気を醸し出すこの肖像画、解説によるとドガの妹夫婦が子供を亡くしたときの様子を描いた絵らしい。両者とも喪失感を想像させるうつろな視線を別々の方向に向けているが、あっさり描いているドガの筆は、妻を滑らかに、夫をパサついたタッチで処理していてその性格と心情まで表現しているように思える。夫の背後の黄土色のカーテンがまた乾いた雰囲気を醸していながらきっちり二人の背後を塗り分けているのがニクい。乾いた・・と言えばテーブルクロスにはアラビア語が描かれていて、はっきりは読めないのだが、裏返しになっているみたいで、おそらくオスマントルコのスルタン、マフムート2世を讃える言葉がアラビア書道で描かれている(図案はこちら)。裏返しになっているところや筆の流れの跡がアラビア文字の筆順(と言うか筆の運び)と違っているところから察するとドガも含めて誰かがアラビア語(この場合はもしかしてトルコ語?)を解していたというわけではないらしい。しかし、ここからもドガの丁寧で正確なデッサンのセンスが推測できる。言っちゃあなんだが、ゴッホの浮世絵の漢字とは根本的に違っているんじゃないかなぁ。もしかしてこのクロスの部分にも何らかの意味がこめられていたりして・・・なんてのは考え過ぎかもしれないが、いろいろ想像するのは楽しいし、そう思わせるところがこれまたニクい。やや、ついついドガの話になると長くなってしまった。
「第5章 20世紀の肖像画」
美術の価値観が大きく変わり、肖像画もモデルや注文主主体から画家主体になった20世紀、善くも悪くも面白い作品が多い。マティスの「カルメリーナ」は多分以前にも観たことがある作品だけど、とても新鮮。平坦に塗った画面だが空間表現が見事でモデルと背後の壁との間の空間がモデルをひきたてている。壁に鏡があってモデルの背中と画家の一部が写っているのもニクい。ファン・エイクやベラスケスへのリスペクトだったりして・・・と考えるとちょっと嬉しくなる。ん、もしかしてこの絵を前観たのは画集だったか? ピカソの女性の肖像は分析的キュビスム。個人的な好みだが実はあのアフリカのお面のようなキュビスムよりも、あれを経て実験したこのバラバラキュビスムの方が好き。実体をかろうじて残しつつ存在感と動きをとじこめたようなあの表現、描こうと思っても無理だよなぁ・・といつも思う。余談だが、ピカソは抽象画をやったのでは断じてない。あくまで具象表現にこだわって対象の抽象性を表現しようとしたにすぎないのだと思う。ピカソ作品は立体もあったのだが、それもキュビスム。平面でやるからキュビスムなんじゃないのかと思ったけど、造形の過程において立体(というか立方体か)の部品に置き換えて配置を考えているところなど本質的には変わらないのかもしれない。アイルランドの画家オーペンの作品は初めて観たのだけど、展示されていた「夏の午後(アトリエの画家とモデル)」は、その自虐的な自画像にもかかわらず画面の構成とか配置とか微妙な距離感とかなにかと面白い。最後、ルシアン・フロイドのエッチングがあったのだけど、その解説にはフロイドは遅筆でモデルを長時間そのままにしていたと書かれていた。なるほど、あの肉塊のような人物画は長時間ポーズをとらされた結果モデルからにじみだす疲れを描いていたのかもしれない。この版画だってなんだかごにょごにょもたもたと無駄に線が絡み合ってる印象があるけど、どれだけの時間がかかったんだろう。フロイドはモデルの人間らしさを引き出すためにあえて時間を引き延ばしていたのかもなぁ・・と、今まであまり好きではなかったフロイドのリアリズムに近づけたような気がしてちょっと印象が良くなった。
展示室を出ると図録に関するアンケートがあったので回答してきた。アンケートの自由記載欄に図録の内容の要望として、作品の細部の拡大は原寸大にしてほしいと書いておいた。いつも思うのだが、実際の大きさで見て初めてわかる画家の手と視点の情報というのは馬鹿にならない。
それにしても、名古屋ボストン美術館の客の少なさには快適な反面、お節介にも心配してしまう。いつからやってるのか知らないけど先着2000名のポスタープレゼントも会期終わり間近というのに結構残っていたし・・・どうしようかと思ったけどポスターをもらって帰って職場の自分のデスクの近くに貼っておいた。何かの話題になれば人に薦めるつもり。あれだけの内容なのに集客が芳しくないのはあまりにもったいない。
2006年7月2日
上村松園・松篁・淳之・三代展
長久手の名都美術館で開催されている特別展に行ってきた。奈良の松柏美術館所蔵作品による上村松園、松篁、淳之の三代の作品の展覧会。いつものことながら年輩のお客さんが多い客層。
上村松園は言わずと知れた京都画壇の美人画の第一人者。以前、三重県立美術館で大規模な回顧展があったので、その圧倒的な作品群の記憶が新しい。今回は非常に小規模ながらこの松園の作品と息子の松篁、孫の淳之の作品を集めた展覧会。名都美術館は展示室が1階と2階に別れているのだが、松園の作品は1階の奥の展示室に10点ほどのみで、後は二代目と三代目の作品が集められている。あまりない親子三代の日本画家たちの作品が網羅してあるのは良いのだが、その質の違いには愕然とする。結論から言うと、松園を主役にして二代目・三代目は代表作をそれぞれ数点ずつのほうが松篁、淳之にとっても良かったのではないかなぁと思った。もっともそれでもこの展覧会の主役は松園の作品だったわけだけれども・・・。
1階はしばらく二代目松篁と三代目淳之の大作が並んでから、奥の松園の展示室になる。松篁作品は、「母子の羊」「羊と遊ぶ」といった牧歌的な作品の若草、ヒナギクの葉、羊の存在感はあるのだけど、なぜか躍動感に欠ける感じがするのは岩絵の具のマチエールのせいだろうか。「真鶴」はライティングが作品の輝きを引き出している。「春雨」など松篁の人物画は全体的に冴えない。淳之は、月に鴫が3羽の「憩」ぐらいか。
奥の部屋にある松園の作品は「花がたみ」「楊貴妃」「鼓の音」「虫の音」「新螢」「唐美人」「静思(下絵)」といった作品で、その幾つかが下絵と本画がセットで展示されていて興味深い。これらのほとんどは以前に津の展覧会で観たものばかりなのでなんとなく懐かしさを覚えた。「花がたみ」「楊貴妃」の迫力は流石だと改めて感心する。この2点の前は常に観客が立っていたことからもこの展覧会での位置づけがよくわかる。「楊貴妃」は下絵ではっきり描かれていたスダレ越しの景色がかなり印象が違っていて驚いた。下絵の段階ではどこまで本画での表現を考えて描いていたのだろう。このあたりは洋画とはかなり異なるアプローチかもしれない。今回初めて観た松園作品は二曲一隻の屏風になった「虫の音」ぐらい。手前の植物から虫の音が聞こえる場面、タイトルを見なくてもその様子がつたわるのは流石だ。下絵のみだった「静思」は、本画で蝋燭がどう描かれるのか見たかったなぁ。影のない日本画の画面で蝋燭の光源がどういう佇まいをみせるのか、興味津々。
2階へ行くと、階段をのぼったところに松篁の「金魚」があって、これがなかなか面白い。横長の画面が2枚並んでいて、出目金とメダカが上から見下ろすような角度で描かれている。ちょうどガラスケースの中の展示ということもあり、なんだか金魚すくいでもはじめられそうな雰囲気。ユーモラスな遊び心と余裕が感じられて、出目金の描写にも生き生きとした感じがある。展示室に入ると、淳之によるフラ・アンジェリコの模写があってびっくり。初期ルネサンスのフレスコの表現って、たしかに日本画に通じるよなぁとひとり納得した。このフロアは花鳥画が多いのだが、松篁と淳之とでは、淳之の作品の方が断然良かった。「鴫」や「雪の日」など空気感にも冴えがある。一方、松篁は晩年は特に精彩を欠いて見苦しい。作品の選び方なのかもしれないけど、二代目松篁の没落ぶりがなんだか気の毒になってしまった。画家本人がどういう境遇で制作を続けていたのかはよく知らないが(略歴があったけどよく見ていない・・・)、もし本当に芸術家としての作品づくりをしていたのなら、本人は決して晩年の自分の作品に満足できていなかったのだと思う。美人画の頂点に立つ松園、独自の柔軟な姿勢で花鳥画を描いた淳之に挟まれて、この展示は松篁にとって不本意じゃなかろうか。名声こそ得てもこの展示ではその名声がどんなものなのか疑ってしまう鑑賞者もいることだろう。展覧会というものは時に残酷だなぁと思う。