2007年1月12日
ヨーロッパ肖像画とまなざし -16-20世紀の顔-
もう半年もあいてしまって10以上も下書きのまま(公開せず)で停滞しているこの展覧会メモ、年が変わって最初にでかけた展覧会の感想から再スタートします(残りはそのうちに・・・)。
たまたま名古屋の中心部で仕事があって、早く終わったので名古屋ボストン美術館の夜間開館(しかも夜間割引で200円引き)を利用して観てきた展覧会。午後5時に栄から金山に移動して美術館に行くとガラガラでちょっと拍子抜け。せっかく夜間開館してくれてるのにみんな行かないの?! ルネサンスやマニエリスムからキュビスムまでの実に濃厚なヨーロッパ人物画の数々をほぼ貸し切り状態で鑑賞できるのはまことにありがたい。この展覧会、昨年の秋からやっていてずっと気になっていたのだけど、どうも名古屋ボストン美術館の展覧会は会期が長いせいか、ついついいつも先延ばしになってしまい、今回も同様で足を運ぶのが遅くなってしまった。この肖像画展は16〜20世紀の絵画とあって、画家とモデルの意識が時代で変わって行くことや様々な画家の視点が体系的に見えて面白い。
さて、展示内容は実にシンプルで16世紀からはじまって1世紀ごとにセクションが区切られている。ここまではっきりと年代別に展示される展覧会って意外と珍しいかも。というわけでその年代別に気になった作品について書き出してみることにする。
「第1章 16世紀の肖像画」
ネーデルラント、ドイツの北方絵画とイタリア絵画が大小あわせて9点。なんといってもティツィアーノの「本を持つ男の肖像」の存在感が圧巻。パッサロッティの「リュートを奏でる男の肖像」はバロック初期の雰囲気たっぷりだがどうもリュートの柄の表現がぎこちなくて違和感がある。デル・コンテの割と大雑把な「高い位の聖職者の肖像」は、解説によるとやや間延びした人物がマニエリスム的とあったけれどあまりそんな感じは覚えず、むしろゴッテリとしたマチエールの方にエル・グレコ的なマニエリスムに近い部分を感じた。この頃はルネサンスからマニエリスムに寄り道してバロックに至る時代、画家たちの手探り感が漂っていて面白い。
「第2章 17世紀の肖像画」
濃厚な写実のオランダ・フランドル絵画を中心に10点。ヴァン・ダイクの「自画像」「ペーテル・シモンズ」の2点がなかなか興味深かった。肩ごしにこちらを振り向く自画像に昨年日本橋三越で観たベオグラード展のドガの人物画を思い出した。あれはたしかギルランダイオの壁画がインスピレーション源とのことだったけれど、このポーズの人物を肩から上だけ描くというスタイルって、ドガはもしかしてこのヴァン・ダイク作品を知っててやったのかも。そして、解説にはこのポーズはヴァン・ダイク考案みたいに描かれてあったけど、ギルランダイオ作品を参考にしていたとかってことはないかなぁ・・・誰が最初というのは大した問題ではないけど、こうして人物表現の方法を色んな画家が色んなところから模索していたと想像すると面白い。もうひとつの「ペーテル・シモンズ」は右手が大きく描き直されたのが塗りつぶした形跡からよくわかるのだが、前のままだと両手がのびていて変である。ということは、左手はどうなっていたのだろう??本人の意向か注文主のイチャモンか知らないけど、この時代の肖像画がただ似せるだけではなくなっていかにしてその人らしさを表現するかをこうしたポーズで探っていたのかも、と思う。フィリップ・ド・シャンパーニュの「ジョヴァンニ・アントニオ・フィリッピーニ神父」はポール・マッカートニーみたいな顔つきの神父が手すり越しに佇んでいるかのように描かれた作品で、手すりの端に額縁の陰が描かれていたりとその騙し絵っぷりに思わずニヤリとしてしまう。威厳をもって描かれたはずなのだが、なんとなく「してやったり」と言った笑みを神父の表情に見てしまうのは気のせいだろうか。この頃の騙し絵は迫真の描写術のパフォーマンスだったのだろうけど、騙し絵らしい遊び心も重要な要素だったんじゃないかなぁ。騙し絵と言えば、レンブラントの版画「ヤン・コルネリス・シルヴィウス」も壁からにょきっと乗り出したような姿で陰影がつけられていて、これにも遊び心がある。
ベラスケス工房の「王女マリア・テレサ」はこの展覧会のポスターにもなっている作品だけど、ベラスケスではなくて弟子たちがコピーしたものらしい。実物を見てその中途半端さにちょっとがっかり。その隣のマースの「ヘレナ・ファン・フーヴェルの肖像」は、おやっレンブラントかと思ったら違っていて、解説によるとレンブラントのお弟子さんとのこと。なるほどナットク。巨匠の弟子たちの作品ということでこの2点が並んで展示されているのが楽しい。そしてスリンゲラントの「ヤン・ファン・ムッシェンブルックとその妻」は細部の描写が実に念入りに描かれた風俗画風の肖像画。光がちょっと変で人物が強調されているのがわかるが、この頃の室内を描いた絵としてはこれが普通なのだろうか。この手の絵はついついフェルメールを連想してしまうけど、フェルメールは肖像画ではなく、やっぱりその空間というか光を描いたのだろうなぁと思った。
「第3章 18世紀の肖像画」
イギリスとフランスの絵画を中心に12点。17世紀バロックの後に見るとなんとも頼りなく見えてしまうので実はあまり印象に残っていない。クレスピの「大臣フローリウス・セネシウス」やペロノーの「男の肖像」の画面の粗さが気になってしょうがなかった。あと、ランクレの「踊り子の肖像(マリー・サーレ嬢?)」のロココっぽさが時代を感じさせる。やっぱりロココはいまいち好きになれない。レノルズの「子供を抱くリチャード・ホー夫人」はラフなスケッチにとどまっているのだけどかえって画家の目と手が見えるようで新鮮。でもきっと途中やめの未完成作でこんな風に展示されるのは本望ではないのだろうなぁ。絵ではなくて大理石の彫像なのだけど、ウードンの「男の胸像」がすごく良かった。石材中の方解石の結晶がまた額に光る汗のようで実に生々しい存在感だった。
「第4章 19世紀の肖像画」
ボストン美術館の得意とする時代? 他のセクションの倍以上の作品が並んでいて、以前に見たこともある作品もちらほら。このコーナーのはじめ、ファーブルの「男の肖像(ロザリオ・ペルシコ?)」、コンスタブルに帰属の「女の肖像」がなかなか秀逸。マネの「ヴィクトリーヌ・ムーラン」は一目見て「草上の昼食」や「オランピア」のモデルとわかって楽しいし、ゴッホの「郵便配達員ジョセフ・ルーラン」はやっぱり明るい水色の背景のどっしりとした存在感が前回見た時と同様に目に飛び込んでくる。トゥールーズ=ロートレックの「画家のアトリエのカルマン・ゴーダン」と「キャバレーのアリスティード・ブリュアン」は一方が油絵で一方がリトグラフのポスターで表現が全然違うのに同一作家の作品とわかってしまうのが面白い。やっぱりロートレックは線の画家なのだなぁとしみじみ。
このセクションではこんな感じに当然のことながら印象主義以降の近代絵画が多いのだけど、一番良かったのはなんと言ってもドガの「エドモンドとテレーズ・モルビリ夫妻」(このブログでドガ作品の評価がいいのはいつものことなのだけど・・・)。ただならぬ雰囲気を醸し出すこの肖像画、解説によるとドガの妹夫婦が子供を亡くしたときの様子を描いた絵らしい。両者とも喪失感を想像させるうつろな視線を別々の方向に向けているが、あっさり描いているドガの筆は、妻を滑らかに、夫をパサついたタッチで処理していてその性格と心情まで表現しているように思える。夫の背後の黄土色のカーテンがまた乾いた雰囲気を醸していながらきっちり二人の背後を塗り分けているのがニクい。乾いた・・と言えばテーブルクロスにはアラビア語が描かれていて、はっきりは読めないのだが、裏返しになっているみたいで、おそらくオスマントルコのスルタン、マフムート2世を讃える言葉がアラビア書道で描かれている(図案はこちら)。裏返しになっているところや筆の流れの跡がアラビア文字の筆順(と言うか筆の運び)と違っているところから察するとドガも含めて誰かがアラビア語(この場合はもしかしてトルコ語?)を解していたというわけではないらしい。しかし、ここからもドガの丁寧で正確なデッサンのセンスが推測できる。言っちゃあなんだが、ゴッホの浮世絵の漢字とは根本的に違っているんじゃないかなぁ。もしかしてこのクロスの部分にも何らかの意味がこめられていたりして・・・なんてのは考え過ぎかもしれないが、いろいろ想像するのは楽しいし、そう思わせるところがこれまたニクい。やや、ついついドガの話になると長くなってしまった。
「第5章 20世紀の肖像画」
美術の価値観が大きく変わり、肖像画もモデルや注文主主体から画家主体になった20世紀、善くも悪くも面白い作品が多い。マティスの「カルメリーナ」は多分以前にも観たことがある作品だけど、とても新鮮。平坦に塗った画面だが空間表現が見事でモデルと背後の壁との間の空間がモデルをひきたてている。壁に鏡があってモデルの背中と画家の一部が写っているのもニクい。ファン・エイクやベラスケスへのリスペクトだったりして・・・と考えるとちょっと嬉しくなる。ん、もしかしてこの絵を前観たのは画集だったか? ピカソの女性の肖像は分析的キュビスム。個人的な好みだが実はあのアフリカのお面のようなキュビスムよりも、あれを経て実験したこのバラバラキュビスムの方が好き。実体をかろうじて残しつつ存在感と動きをとじこめたようなあの表現、描こうと思っても無理だよなぁ・・といつも思う。余談だが、ピカソは抽象画をやったのでは断じてない。あくまで具象表現にこだわって対象の抽象性を表現しようとしたにすぎないのだと思う。ピカソ作品は立体もあったのだが、それもキュビスム。平面でやるからキュビスムなんじゃないのかと思ったけど、造形の過程において立体(というか立方体か)の部品に置き換えて配置を考えているところなど本質的には変わらないのかもしれない。アイルランドの画家オーペンの作品は初めて観たのだけど、展示されていた「夏の午後(アトリエの画家とモデル)」は、その自虐的な自画像にもかかわらず画面の構成とか配置とか微妙な距離感とかなにかと面白い。最後、ルシアン・フロイドのエッチングがあったのだけど、その解説にはフロイドは遅筆でモデルを長時間そのままにしていたと書かれていた。なるほど、あの肉塊のような人物画は長時間ポーズをとらされた結果モデルからにじみだす疲れを描いていたのかもしれない。この版画だってなんだかごにょごにょもたもたと無駄に線が絡み合ってる印象があるけど、どれだけの時間がかかったんだろう。フロイドはモデルの人間らしさを引き出すためにあえて時間を引き延ばしていたのかもなぁ・・と、今まであまり好きではなかったフロイドのリアリズムに近づけたような気がしてちょっと印象が良くなった。
展示室を出ると図録に関するアンケートがあったので回答してきた。アンケートの自由記載欄に図録の内容の要望として、作品の細部の拡大は原寸大にしてほしいと書いておいた。いつも思うのだが、実際の大きさで見て初めてわかる画家の手と視点の情報というのは馬鹿にならない。
それにしても、名古屋ボストン美術館の客の少なさには快適な反面、お節介にも心配してしまう。いつからやってるのか知らないけど先着2000名のポスタープレゼントも会期終わり間近というのに結構残っていたし・・・どうしようかと思ったけどポスターをもらって帰って職場の自分のデスクの近くに貼っておいた。何かの話題になれば人に薦めるつもり。あれだけの内容なのに集客が芳しくないのはあまりにもったいない。