2006年3月26日
没後50年 モーリス・ユトリロ展
会期終了が迫ったこのユトリロ展、幸い前日に妻の実家で残っていた招待券をもらっていたので出かけて来た。午前中に整体に行く予定があって、体がほぐれたあとに外出ついでで名駅に向かう。会場はジェイアール名古屋タカシマヤ10階の特設会場。日曜日の名駅は東京並みに混雑するのをすっかり忘れていて、会場入り口付近に停滞する人混みにちょっとウンザリ。受付で作品リストがないか訊ねたがないとの返事にさらにウンザリ。でもまぁ、招待券で入ってるんだし気楽に見てこようと人垣の隙間をぬって作品と解説パネルを鑑賞してきた。展覧会は丁寧な解説付きでユトリロの生涯を順に追った構成になっている。
この展覧会はユトリロの全盛期ではない作品が多いせいか、絵画展としてはぱっとしない内容だった。絵だけを見ればおそらく半数以上が駄作だ。しかし、要所要所に用意されていた丁寧な解説が絵の退屈さを補っていることに気づいたら、なかなか意味深い展覧会だと思えた。解説パネルは白の時代、色彩の時代、母ヴァラドンやユッテル、妻リュシーについて、ユトリロの女性観や信仰について、アルコールについて・・・と割と細かく説明されていて、読んでいるとユトリロのキョーレツな人生と画家という呪われた職業、そして経済社会と個人のあり方についていろいろと考えさせられた。同じ経済社会の辺境(あるいは底辺?)に生きる人間としてはユトリロには共感できる所すらあった。しかし展示数(約80点)の割に、作品の内容がイマイチだったのでユトリロの人生の痛々しさのみが印象に残りやすい感じがする。
ユトリロについては何度もテレビでとりあげられていたりするのでなにを今更・・といった感があるが、一応その生涯を簡単におさらいするべく広告ビラ裏面のユトリロの略歴を引用しておく。
ユトリロ略歴
1883年 パリ・モンマルトルに生まれる。
1891年(8歳) ミゲル・ウトリーリョ・モルリウスによって認知され、以後ユトリロの姓を名乗る。
1896年(13歳) パリのロラン中学校に入学。飲酒癖がひどくなる。
1904年(21歳) パリのサン=タンヌ精神病院に入院。退院後、医師の勧めで絵を描くようになる。
1914年(31歳) モンマルトルの建物や風景を重厚なマチエールで描く独自の世界を築き上げ、この頃<白の時代>の絶頂期を迎える。そして、精神病院への入退院を繰り返す。
1928年(45歳) レジオン・ドヌール勲章シュバリエ章を授与される。
1935年(52歳) リュシー・ヴァロールと結婚。
1938年(55歳) 母ヴァラドン死去。
1955年(72歳) 南仏ダックスにて死去。モンマルトルに埋葬される。
さて、以下、もうすこし細かい展覧会の感想。
展覧会の出品作は約80点のうち約20点が本邦初公開とのこと(どうして「約」がついてるのかは不明)。ユトリロといえばモンマルトルの白壁の街並を描いたものを思い出すが、その大半が白の時代と呼ばれる30歳くらいの時のものなのだそうである。アル中のリハビリで絵を描き始めてから6〜12年ほど経った時期に描いた作品で、漆喰の質感を再現するためにいろいろ実験的にマチエールをつくっていたらしい。私生児として生まれてから母の愛情に飢えて酒浸りになる孤独な生い立ちを知ると、孤独を塗り込めるように漆喰の壁に固執したという解釈にも頷ける。この時代の詩情あふれる画面は結構好きだ。1911〜12年の「マリジー=サント=ジュヌヴィエーヴ教会、フェルテ・ミロン近郊」、「モンマルトルのアブルヴォワール通り」あたりが壁のマチエールが重厚でとてもユトリロらしい。1912年の「ラパン・アジル」は冬の木立と曇天が詩情をひきたてている。同じ「ラパン・アジル」を1916〜17年頃(同じく白の時代)と1933年(後の色彩の時代)にも描いたものが展示されていたが、前者は夏バージョンで青々と茂った木々と木陰の二人の人物が全く印象を変えていて、思わず描き手の心境を想像してしまう。後者は晩秋なのかちらほらと葉が残り、数名の人影が見える。冬と夏のものに比べるとどうも中途半端に見えるのは「売り絵」として描かされたものだからだろうか。あと、この白の時代にしては1912年の「サノワの風車」はちょっと異色でロマン主義風の空がとても印象的だった。
しかしユトリロの表現者らしさを感じるのはこの白の時代だけと言ってもよさそうだ。絵が売れ始めて母ヴァラドンに頼られるようになると、孤独を塗り込めるのではなく母親を振り向かせるために絵を描くようになって様子が変わる。それが色彩の時代。1919年の「サン・ヴァンサン通りと藁葺き屋根の家」は街灯のある街並や構図は好きだが色彩の時代というほどの色彩は感じられなくて重厚さもなく物足りない。1922年の「ムーランの大聖堂」「リムールの教会」は黒い線が印象的で先日観たビュッフェを連想したが、油がもたついていてべた塗りになっているので絵の深みに欠ける感じがする。1923年の「ベ市のプロテスタント寺院」、1924年の「サン・ベルナールの風景」あたりは鮮やかでコントラストも効いているのでこの時代のものでは良い方なのかもなぁと思う。
ちなみに説明用のパネルには「色彩の時代 - 貨幣鋳造機」という皮肉な見出しまでつけられていたが、当のユトリロは安酒のために絵をそうとう安く売っていたようである。「画家ユトリロの誕生」「画家としての自覚」という見出しのパネルによると、ユトリロ本人だけではなく周りの人々にも絵の価値を知らずに安値で売り買いしていた人々が多かったようだが、それならこれが本来の形なのだろうと思ってしまう。美術品のべらぼうな高値のイメージはあくまで画商がヤクザな商売をしているせいで定着した部分が大きいのだと思う(すべての画商がそうではないと信じたいケド)。
説明のパネルは「ユトリロの女性観」「母ヴァラドンの生い立ちと転機」「ヴァラドン、ユッテル、ユトリロ - 奇妙な三位一体」としてまた別のユトリロ像を伝えてくれていた。母親のシュザンヌ・ヴァラドンが魅力的な絵を描く一方で幼いユトリロを置いて遊びまわっていた話は有名だが、そのヴァラドンの母親、つまりユトリロの祖母も罪人との間に私生児としてヴァラドンを生んでいたりしてまたなかなかにスゴい人生を送っていたのには驚いた。母性愛に飢えているユトリロが神聖視していた女性はその母ヴァラドンとフランス史の英雄ジャンヌ・ダルクだけで、他の女性は嫌悪していたという。酔っぱらって市井の妊婦を見かけては攻撃したなどという危険人物ぶりにはそういう背景があったのか。また、ユトリロの描く奇妙に腰の張り出した女性像はこの女性嫌悪の現れだったというフロイト的な解釈も紹介されていてとても納得できる話だ。
色彩の時代の後、母ヴァラドンはユトリロよりも年少で友人だったユッテルと結婚し、金の成る木ユトリロを閉じ込めて売り絵を描かせて二人はその金で贅沢三昧の生活を送っていたらしい。この頃の絵は油絵の代わりにグワッシュを使って軽く描いていたりして、昔の塗り込めた重厚感は見る影もない。デュフィあたりに通じる軽やかな線の静物画などもあってとてもユトリロ作品には見えなかったりするのだけど、本当にユトリロの絵なのか? と疑いながら観てしまった。
そして、ユトリロは52歳で結婚して母親夫婦とのクレイジーな関係を終わらせるのだが、その結婚相手リュシーは美術コレクターの未亡人で画商、ユトリロには美術市場で人気のある昔の「白の時代」の作品を模写させるようになる。そのユトリロの作品1点に自分が描いた絵2点を抱き合わせて法外な値段で売っていたと言うから実に悪徳である。おまけにユトリロには水で薄めた安ワインを飲ませていたとの話で、ユトリロの気持ちを想像するといたたまれなくなってくる。
そしてユトリロは最愛の母ヴァラドンの死後、一日の大半を母への祈りに費やすようになって生涯をとじる。母親がいわゆる無神論者だったので洗礼を受けていないユトリロだが、そのあたりの心理が少し興味深い。
ユトリロにとっての絵画はもともと治療のための安定剤だったが、同時に心の隙間を埋める代償行動でもあった。その象徴的なこだわりが漆喰の壁への執着であり、そうして描かれた初期の作品には表現者としての凄みがあるように思う。しかし色彩の時代以降の半端な作品群を見ると、解説パネルでもほのめかされていたように、ユトリロは芸術家である前に愛情に恵まれない孤独な人間だったのだなぁと強く感じる。輝きを見せた全盛期の作品と冴えないその後の作品群、また金づるとして搾取されて制作した売り絵の数々をまとめて観ると、絵の善し悪し以前にひとりの孤独な人間としての素朴な姿を表現し続けたのかもしれないと感じた。表現できていないことも含めて表現しているというのはなんともイヤミな解釈だけれど、その意味ではとても純粋な表現者だったのだと思う。
それにしても、この展覧会で浮き彫りにされていたもうひとつのこと、美術市場の金儲け主義の側面もとても痛々しいものだった。安ワインを水でうすめて飲ませながら監禁状態で売り絵を描かせるのは少々極端な話だが、この極端さがかえって芸術が経済力に支配される現状を象徴しているようにも見える。もちろん、いいものが評価されて高額な値がつくのは悪いことではないし当然だと思う。ただ、(本来ビジネスにされるべきものではないとは思うのだが)少なくともきちんと画家の絵画世界が評価されなければ本末転倒だ。
奇しくも、会場を出るとデパートの売り場。所狭しと関連グッズが売られ、ユトリロの複製画や別の画家による版画作品がン十万で売られている現実が目に飛び込む。もしかしてこれは絵画市場のエゴに飲み込まれたユトリロのパロディか? そう思ったお客も少なくないのではないかと思った。
文責: 桂田祐介 2006年4月8日