2006年3月18日

ロダンとカリエール

三月になって三度目の東京入り。早めに東京へ着いたので上野の国立西洋美術館の「ロダンとカリエール」展を観て来た。実は一週間前に東京へ来た時に観ようかと思っていたのだけど疲れていたので先延ばしにしていたのだ。この展覧会は19世紀末のフランスの画家ウジューヌ・カリエールと彫刻家オーギュスト・ロダンの追求した人物表現を比較する展示内容。展覧会は、I. ロダン像とカリエール像、II. ロダンとカリエールの直接の交流、III. ロダンとカリエールをめぐる人々の肖像、IV. ロダンとカリエールにおける象徴主義、そしてV. ロダンとカリエールを結ぶ糸の5つのセクションで構成されている。
まずは、名古屋に戻ってすぐに掲示板に書き込んだ感想を抜粋。

3528. ロダンとカリエール展、オススメです。 桂田  2006/03/20 (月) 02:39

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ロダンとカリエール、なかなか面白かったです。カリエールは19世紀後半のフランスの画家でマティスやドランの師匠さんらしいですが、実はあまり知りませんでした。先のプーシキン展で2点ほど来ていたのでその印象が強く、暗闇にぼんやり浮かぶ人物像とその時代背景から写真の効果がインスピレーション源なのかなーとか勝手に想像していたのですけど、今回ロダンとの関係を知って自分の認識が全く間違っていたのがわかりました。反省。絵画と彫刻、平面と立体の異なる立場から追求した普遍性、永遠性、深く共感できました。
カリエール作品は版画、素描、油絵と色々あったのですが、同じ手法でも描き方が異なっていて試行錯誤の様子が伺えます。ロダンの方も未完成なのか完成なのか大理石や石膏が残されたものもありまして、ノミの跡のリズム感や粘土をこねる手の感じからもロダンの思考が想像できて興味深かったです。あと、同一のモデルの肖像を二人が造っていたりして、各々の写実の姿勢が垣間見えるのも面白いです。ええと、詳しくは例によって展覧会メモのほうで・・・(前の週のも書かなければ!)。
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会場に入ると最初にあるのがロダンが監督したというカリエールのデスマスクと型取りされたカリエールの手。生前ロダンが肖像を造らなかったという盟友カリエールの死後に行った型取りだとか。この二人の関係を示唆する展示だ。その後、先日日本橋三越のベオグラード美術館展でも観たカリエールによるロダンの肖像が並ぶ。階を移ってつづくセクションでは、ロダン展のポスター用に描かれたカリエールの作品や互いが購入し合って所有していたという作品がある。「習作」と題されたカリエールの作品が幾つかあったが観ていると習作なのか本画なのかよくわからなくなってくる。暗闇に人物の手と顔だけを明るい色で描いた「胸像に向かう彫刻家」の動きの末端部の強調からはカリエールの実験的な意図を感じた。

次の肖像のセクションでは同じモデルの肖像を二人が作っていて、それらを比較できるのが興味深い。ピュヴィ・ド・シャヴァンヌの肖像はパッと見の印象こそ違うが、その外見的な特徴はもちろん微妙な表情からうかがえる繊細な雰囲気が共通していて二人のリアリズム観が近いことを思わせる。このシャヴァンヌ像、カリエールは油絵とリトグラフで制作しているのだけど、リトグラフの方は版画なので左右反転した構図になっている。眺めていると両者に微妙な表情の差があるように思えるのは、脳の左右差で顔の半分ずつの雰囲気が異なるからだなぁなどといつもながら脱線。いや、それだけマッスとして人物の顔をとらえた証だということか。このあたりも彫刻的な視点を示す好例なのかもしれない。この作品に限った事ではないが、油絵の方は薄く溶いて描いた後、明部をスクラッチして描いているのも新鮮。かなり硬くなった筆を使っているんだろうか、ちょうどリトグラフと同じような効果が出ているのが面白い。あと、ギュスターヴ・ジェフロワの肖像はカリエールとロダンとで15年の差があり、モデルの人物の変化が文字通り刻まれているのが面白かった。

象徴主義のセクションでは、はじめに用意されていた解説パネルに色価(ヴァルール)という言葉があって驚いたが、その通りロダンの「最後の幻影」は絵画的な試みとカリエール作品からの影響が顕著だった。世紀末、象徴主義とくればついつい幻想的なものや耽美的なものを連想してしまうが、この二人の場合は、「祈り」と「瞑想」が精神的なモチーフとして機能しているのを感じる。とくにカリエール作品には母性をテーマにした作品が多く相変わらず習作的なものも多いけど、明部を少し厚塗りにしたりとより立体感を強調する描き方をしているように思えた。明部と描いたが、画面内に落ちる人物の影がないせいか実際の明暗ではなくて手前にあるものが明るく描かれているように見えて、つくづく彫刻家の視点で描いているのだと思わされる。レンブラントよろしくといった趣の自画像数点も最初に展示されていたデスマスクを思い出してしまった。一方のロダンも母性をテーマにしたものが多く、また、土台の石を残して未完成?と思えるようなものも多かったが、数々の作品を観ているとこれこそ瞑想のひとつの表現なのだなぁと思わされた。「母親と死んだ娘」などまるで大理石に溶け込むような感じさえするが、このむき出しになった大理石がまた面白い。螺旋を描くように全体に鑿の跡が残されていて、もしかしてこうして彫り進めるのだろうかと彫刻をやらない身にはとても新鮮。渦巻き状の鑿跡はなんだか対象のエネルギーの流れを示すようにも見えるし(ゴメンナサイ、もともと物理をやっていたもので・・・)、後ろから見ると分析的キュビズムのようにも見えるのが面白い。彼らの後に出てくる具象から抽象への流れを予見しているようにすら感じてしまった。

最後に二人を結ぶ糸としてダンテやユゴーといった文学との関わりが取り上げられていて、先の象徴主義を後から説明するかのような展開になる。だんだん二人の思想と思考の過程を解きほぐして行く展示の構成は本当によく考えられた展覧会だなぁとひたすら感心。ロダンはあの「地獄の門」ののたうちまわるような激しい表現がめだってきて(実際どうなのか詳しくは知らないが)例のカミーユ・クローデルのエピソードを思い出してしまった。カリエールはまるでムンクのようなうねりが画面に現れ始め、以前より線が残る表現も多い。後半には両者ともトルソに力点を置いた(というかトルソそのもの)作品が多く、当時の文学の背景にある古代ギリシャの世界にも関心が及んでいたのかと、ちょっと意外な展開に驚いた。実はここで若いピカソが模写をしたと言う「道行く人々」があったが、近くにあった「「夢想」のための習作」は青の時代のピカソ作品を連想させる(いや、順番としてはカリエールが先なのだけど・・・)。カリエールはロダンとともに瞑想をテーマにした独自の精神性を追求していった感があるけれど、実はしっかりと時代の流れをつくっていたのだとその存在を再認識した。地味ながら偉大な人物というのはこういう人のことをいうのだろうなぁ・・と思う。なんだかとても勉強させられた気がした。カリエールは一つや二つの作品を観ていては到底わからない絵画世界をもっている。ロダンは日本で見られる作品も多いし展覧会も比較的よくあるが、今回ロダンとからめてカリエールを大々的に紹介してくれたこの展覧会に感謝感謝である。

さて、企画展を見終わった後はいつもどおり西洋美術館の常設展を観た。ここの古典絵画のコレクションの質の高さにはいつも感動する。が、ホテルにチェックインしなくてはならないので足早に観る。うーん、よく考えれば常設展はいつでも観られるという安心感からいつも好きなものだけかいつまんで観ているような気がする・・・。あと、版画素描室でロダンとカリエール展と同じ期間展示されている「芸術家とアトリエ」展はかなり楽しめた。文字通り芸術家とアトリエがモチーフになった作品が集められているのだが、シャリヴァリという風刺雑誌に発表されたドーミエの風刺の効いた版画はかなり笑えた。ドーミエが多かったが、他にはシャム、トラヴィエス、グランヴィル、ボーモンといった風刺画家の作品が展示されていて、いずれも初めて聞く名前ばかりなのでよくわからないのだけど、生き生きとした線描と風刺が快感だった。きっとテーマが芸術家ということでやや自虐的な笑いにもなっているのかも・・・とついつい描く側の葛藤や開き直りまで想像してしまう。瞑想の世界のロダンとカリエールにこの風刺画と、違う内容ながらセットで観てしまうとなんとなく多面的に当時の表現者の心が見られたような気がする一日だった。

文責: 桂田祐介 2006年3月22日