2006年2月21日

石山寺と紫式部

西国巡礼第十三番札所の石山寺は紫式部が源氏物語を書いたと伝えられる由緒あるお寺。実は実家がちょうど瀬田川をはさんだ対岸に位置しているのでベランダからいつも眺めていたし、高校生の時には仁王像の絵も描いていた。そういうわけでとても身近だったのだが、よく考えれば石山寺についてはほとんど知らなかった。近江八景の石山秋月として名月が有名なのはよく聞いていたのだが、それも紫式部とはつながっていなくて、近くに住んでいたのになんとも恥ずかしい限り。ちょうど松坂屋にこの展覧会が来ていて、身近な石山寺を知る良い機会なので観て来た。

この展覧会は二部構成になっていて、前半は石山寺と紫式部にまつわる石山寺所蔵の文化財の展示で、後半は現代の京都画壇の日本画家による源氏物語絵五十四帖という意外な組み合わせ。

その前半は主に室町時代から江戸時代にわたる石山寺ゆかりの文化財の展示なのだが、古くは平安時代に紫式部が残した大般若経、新しくは堂本印象や上村松園といった近代の作家による紫式部図まであって幅広い。紫式部の大般若経は内容は全然わからないがそのものが展示されている事実に感動。これ以外の展示品は源氏物語がひろまってからの室町時代以降なので、作者の紫式部や源氏物語が題材に選ばれている。式部が石山の満月を観て源氏物語の着想を得たという伝説が生まれ、多くの紫式部観月図が制作されることになった経緯にはなんとなく中世ヨーロッパあたりと共通するものを感じてしまう。それから面白いのは紫式部が観音の化身とされているところで、石山寺(と近くの立木観音?)の観音信仰と紫式部伝説が独自の新たな信仰を生み出した様子も興味深い。色んな時代の紫式部観月図は平安の雅を再現したものもあれば描かれた時代の風俗を反映した当世風アレンジもあって、紫式部が長く日本文学のスーパーヒロインとしての人気があったことを思わせる。松尾芭蕉がシンプルな石山寺の絵とともに句を残しているのも象徴的かもしれない。

展示品の作品としての内容では、第一巻から第七巻までずらっと並べられた石山寺縁起絵巻写本が圧巻だった。五巻までが土佐光起の筆で六、七巻が谷文晁の筆とのことで、それぞれに持ち味があるのだけれど絵巻の横長画面を存分に利用した谷文晁の迫力には参ってしまった。巻物をのばして行くにつれて現れる大画面は当時はものすごいメディアだったのだと思う。
メディアとしての面白さを実感したのは屏風も同じで、土佐光成による六曲一双の源氏物語図屏風はお決まりの俯瞰の空間表現だが雲の切れ目から源氏物語の場面場面を観られる趣向だし、作者不詳の源氏物語図色紙貼交屏風は俯瞰の藤棚を背景に色紙の絵と文が散らされていてこれまた観る側を楽しませてくれる趣向。ハンディタイプの源氏物語画帖や硯箱や香箱にあしらわれた蒔絵などもまたメディアとして機能していたかと思うと、これら描いていた側もとても楽しかったのだろうなぁと想像してしまい、こちらまで楽しくなってくる。

後半の現代京都画壇の作家による連作は、それぞれの作品に付随して源氏物語のあらすじが書かれていて、複雑な源氏物語をダイジェストで読むことが出来るようになっていた。実は閉館間際だったのでこちらはきちんと見られなかったのだが、前半にいにしえのメディア観を実感したこともあって、これは現代版の絵物語というワケか・・・などと企画の意図を想像してしまった。

ちなみにこの展覧会は図録が前半後半が別々の冊子にわかれていたので前半のみを買ったのだが、どうやら厳密な展覧会のカタログというわけではないらしく、もう一度観たかった石山寺縁起絵巻などは載っていなかったのが残念だった。

冒頭に触れた通り、この展覧会では石山寺についても紫式部についてもいかに自分が無知だったのかを思い知ったのだけど、自分の出身地のことはやっぱりある程度知っておきたいものだと改めて思った。石山寺の満月をしょっちゅう眺めていた天文好きの少年時代には、その満月に古くからこれだけ多くの関心が集まっていたとは全く思いもよらなかった。妻も石山寺はまだ行った事がないと言っていたので次に帰省した折にでも石山寺詣でをしてこようと思う。

文責: 桂田祐介 2006年2月27日

2006年2月4日

プーシキン美術館展 - シチューキン・モロゾフ・コレクション -

京響のコンサートを聴くために前日夜から帰省していて、当日は夕方に始まるコンサートまでに時間があったのでそれまでの間に大阪に行こう! と決めていた。目的はこのプーシキン展。中之島の大阪市科学館のすぐ隣に昨年移転した国立国際美術館にははじめて出かけたのだけど、その造形にびっくり。地下なのにうまく地上から採光されていて明るいのにもびっくり。暖房が効き過ぎて暑いぐらいだったのはその寒さや暖房自体の熱だけでなくこの陽射しの影響もあるのかなぁなどと思う。この形は効率的に太陽エネルギーを使う方法なのか・・・と展覧会とは無関係のことを考えてしまった。

さて、この展覧会はモスクワのプーシキン美術館から副題のとおりセルゲイ・シチューキンとイワン・モロゾフというロシアの大富豪が蒐集した近代フランス絵画の作品があつめられている。面白いことにどちらが集めたものなのかがわかるようにシチューキン旧蔵、モロゾフ旧蔵といった具合に表示されていてコレクターの視点に立った展示になっている。そうか、よくあるナニナニ美術館展などという展覧会もよく考えればその美術館が蒐集した作品という点ではまさにコレクターの視点だったのだ。自分はいつもどうしても描く側の視点で観てしまうので、改めて見る側の視点を考えさせられるいい機会だった。とはいえ、やっぱり展示作品自体は描く側の視点で観てしまうのだけど・・・。

入ってすぐ、右側の壁面に最も観たかった作品のひとつ、ドガの「写真スタジオでポーズする踊り子」があった。照明のためなのか思っていたものよりも青みがかった抑制された色調の画面で、踊り子のモチーフにしては珍しく窓の外が大きく描かれている作品。空間を描き出す窓枠の縦の線と床の横の線がリズミカルに踊り子の動きに調和していて、その踊り子の力の入った足とシンクロするような足の鏡が右端にシルエットで描かれており、さらにその隣り合う位置に描かれたカーテンの鮮やかな青を引き立てている。写真用にポーズをとる踊り子の四肢に及ぶ緊張感はさすがの筆力。これは以前に実物を見る前に他所で書き込みさせてもらった私見なのだけれど、この作品の窓の外を描いた構成はドガ一流の暗喩というか、現実の表現のひとつなのだろうと思う。今でこそバレエは華やかな印象だけど当時は全然そんなことはなく少女たちの境遇も酷いもので・・・そんな踊り子の美しさ、儚さ、逞しさ、色んなものを描きながら社会の暗部を浮き彫りにする、そんなドガの視線を感じてしまう。そんなことを書いてから自分のBBSでもまたちょっと話題にしたのでその部分を以下に抜粋。

2879. プーシキン展行きたいです。 桂田  2005/10/27 (木) 20:38

[略]
実際のところはどんな評価があるのかわかりませんが、私の中ではドガの作品の多くにアイロニカルな意図を感じることが多くて、それでついそんなことを考えてしまいます。あの窓の外のパリの風景は当時の繁栄の象徴のようにも庶民の生活の現実のようにも見えますし、窓枠がまるで檻のようにも見えて踊り子の現実をかえって浮き上がらせているような、そんな風にも見えるんですよ。もちろん構図や色彩の面でドガならではの斬新な試みも感じますし、踊り子自身の表現にも卓越した洞察力を感じて、いつもドガの絵には考えさせられます。
ドガは印象派展に出し続けていたせいか印象主義に分類されていますけど、私の中ではクールベやドーミエあたりの(社会的)写実主義に近いものを感じます。マネやピサロも含めて、近代リアリズムとかなんとかいうくくりで再分類できないのかなーなんて、美術史の研究者から馬鹿にされそうなことも考えてしまいます。
[略]

この踊り子のすぐ近くにはルノワールの作品が2点。「ムーラン・ド・ラ・ギャレットの庭で」と「黒い服の娘たち」。前者はモロゾフ旧蔵、後者はシチューキン。実はルノワールは個人的にはかなり苦手な画家で、自分のことを棚に上げて無礼千万を承知ながら言うと、あのモタモタした筆致と冴えない構成と描写がなんとも素人的に見えてしまう。まぁ、好みの問題なので嫌いなら嫌いでいいのだけど、この2点のうちの前者「ムーラン・ド・ラ・ギャレットの庭で」は結構気に入った。いかにも印象派のゆらめくような筆致が画面全体を覆っていて木漏れ日の移ろいが感じられる。画面左側で背を向ける女性のストライプが効いていて心地よい。一方その隣の「黒い服の娘たち」は印象派から古典に関心が移った時期のもので暗中模索している中途半端さが目についた。ぼかした筆致に顔の中身だけがイヤにはっきり描かれるルノワール的な女性像のはじまり? しかしとってつけたような紋切り型の目や唇には思わず吹き出してしまった。あと、不自然な手首といい、入場券に使われるほどの人気の作品だけれど、ルノワールご本人にとっては不本意なんじゃないかなぁ・・・と変な同情心を持ってしまった。対照的な2作品を眺めているとルノワールの苦労や努力を想像してしまった。その後、ピサロやシスレーといった印象派が並ぶ。モネの積みわらががあったのだが、これが日陰から眺めたような絵で光の追求をしたモネらしい視点を感じる。モネの積みわらと言うとどうしても大原美術館の作品を思い出すのだけど、描き方は大原よりも粗くて人物もない。けど、遠景のポプラの幹に差したベージュが効果的でポプラだけでなく背後の山並みにも存在感を与えている点には唸ってしまった。柔らかい光の中での演出に、眼に映るもの(=光)の再現を研究しつづけたモネのこだわりを感じる。ちょっと離れたところにあった同じくモネの「白い睡蓮」も良かった。緑の諧調に支配された画面に浮かぶ白や赤や紫の睡蓮、背景を映す水面、画面をひきしめている太鼓橋・・・粗い筆致にもかかわらずこの表現力は本当に凄いと思う。

印象主義が長く続いて、この後象徴主義やらナビ派やらが続く。知らなかった画家も多く、リュシアン・シモンの「船曵き」の力の連続性を捉えたデッサンにはとても感心したし、フェリックス=エドゥアール・ヴァロットンのカルトンに描かれた「海港」にも息をのんだ。カルトンって、画板? もしかしてボール紙? よくわからないけど、マットな銀塩プリントのような画肌が印象的。そこに描かれたヨットの佇まいもはっきりしながらマットな画面に溶け込んでいて入り江の淀みとともに深みを感じる。
あと、ゴーギャンの「彼女の名はヴァイルマティといった」。おなじみのタヒチ作品だが、緑の大地に浮かぶような明るい色彩がまぶしい。タヒチ神話の女性ヴァイルマティのクメール彫刻のような姿と流れるように配された道筋がとても安定していて、ゴーギャンのタヒチ文化に対する畏敬の念のようなものまで伝わってくる感じがする。ゴッホの「刑務所の中庭」はギュスターヴ・ドレの版画を油絵で描いたものらしいが、陰鬱とした青色に包まれた画面で、自殺する5ヶ月前に精神療養院で描いたという解説に頷いてしまう内容。しかし青い画面に差す光が暖色だったり煉瓦を縦横の線で塗り分ける所などはゴッホらしい工夫なのかなぁなどと思う。それにしてもゴッホと言えば思い出すゴーギャン、ゴーギャンと言えば思い出すゴッホ、この二人の作品の違いがとても対照的だった。
ええと、他にはナビ派のボナールの「洗面台の鏡」なんかも面白かった。愛妻家のボナールはここでも(多分)マルトのヌードを描いているが洗面台の前の鏡に映った後ろ姿で、クローゼットをバックにコーヒーカップを持つ別の人物も描かれている。そんな物語性のあるモチーフが鏡の中の像として装飾的な画面に溶け込んでいるところがニクい。こういう謎めいた作品は結構好きだ。

そしてなんと言ってもこの展覧会の見せ所のマティス作品。個人的にはフォーブが嫌いなのでマティスに対しても実は複雑な気持ちなのだが、大原にある娘の肖像や愛知県美の窓際の絵はとても好きな作品でもある。ここに来ていた3点のうちのひとつの目玉の「金魚」はまずその大きさに驚いた。80号ぐらいの寸法か。てっきりもっと小さいものだとばかり思っていたが、これじゃあ金魚じゃなくて鯉ではないか・・・。しかし敢えてそのサイズで真っ赤な金魚を描くというのもマティス一流のセンスか、とてもインパクトがある。丸テーブルの上の水槽を斜め上から見下ろした構図で、水槽上面の水面に映る金魚の背中が実にいい。そうそう、光の屈折でこういう風に上からも中が見える角度なのだ。そう思うとおおざっぱな筆致がヤケにリアルで、水槽の中のグレーやエメラルドグリーンも金魚鉢らしい濁りに見えてくる。テーブルのまわりには囲むように観葉植物があって、それを隔てる黒もとてもメリハリがある。色彩と形の融合を唱え続けたマティスの説得力がこの作品にはあるように思う。実は展覧会後に貰って帰った宣伝ビラに大きくこの絵が使われていて、ちょうどいいので部屋に飾っているのだが、後になってしみじみとこの絵の面白さを感じる次第。うーん、一昨年の東京のマティス展、観ておけば良かったかなぁと少し後悔。

この展覧会は盛りだくさんで、あと版画とキュビスム作品もまとまって展示されていた。版画では技術的にいまいちどうやっているのかわからないところがあるのだけど、マネやトゥールーズ=ロートレックの石版画が面白かった。あと、ゴーギャンの木版画、ルイ・ルグランのアクアチント作品「4人の踊り子」、ポール=セザール・エルーのドライポイント作品「毛皮の帽子を被った女」などが印象的。ピカソはキュビスム作品はよくわからなかったが、「アルルカンと女友達」は人物画家ピカソならではの作品で深い味わいがあった。青の時代の「貧者の食事」と基本的には同じテーブルに並んで座る二人の人物というモチーフだが、ドガやマネやロートレックが好んで描いたあの感じ。遠く離れるがホッパーにも通じる世界。酒好きウェイツ・ファンとしては見逃せないところなのかも・・・。

冗長になってしまったが、上で挙げなかったものではジャン=フランソワ・ラファエリの「サン=ミッシェル大通り」の粗いながらも雑踏と街の光を地面に立った視点で一点透視で描いた作品も印象に残った。それからセザンヌの「サント=ヴィクトワール山の平野、ヴァルクロからの眺め」は手前に帯状に描かれた道も面白かった。こんなのも描いていたのか〜とちょっと感動。家屋が描かれていて更に手前に道があることでこの山が一気に庶民的というか生活感のある存在になっている。セザンヌはリンゴやらの静物やこのサント=ヴィクトワール山の造形的な実験の印象が強いけど、トランプ遊びをする人々みたいな風俗画的なものもあるので、他のこの山を描いた作品とは違う身近な視点を感じた。あと、カリエールのほとんどモノクロームと言っていい人物画も印象的だった。2点とも当時の写真を題材にしたのかもと思わせる画面だけど、当時としては全く別のアプローチの人物描写をやっていた感じがする。この時代の表現に対する多様性は確かに人気の一因なのかもしれない。

シチューキンとモロゾフの好みの違いは割とわかりやすい気がした。モロゾフは画商の助言を参考にしていたとのことでなるほどシチューキンよりはまんべんなく集めているのかもしれない。彼らの邸宅の写真も展示されていたのだが、いかにも富豪らしい圧倒的なコレクション。モノは違うが最近のIT長者が現代アート作品をとんでもない値段で買いあさる姿にだぶって見えた。良くも悪くも現代美術市場の構図は彼らがモデルケースになったのでは・・・などとも思う。
当時はマティスもピカソも認められていなくて彼らの先見性が評価されているみたいだけれど、もしこの時に彼らが当時のフランス絵画のパトロンにならなかったらどうだったのだろう・・・芸術家のスタンスがかつての宮廷画家の時代とは全く異なる複雑なものになった時代にはこういった経済的に有力な評価者の目に留まるかどうかが非常に大きいのだが、返せばマティスもピカソもゴッホ同様の道をたどる可能性もあったということで、まさに紙一重と言える。改めて美術的な価値とは何なのかを考えさせられた。良くも悪くも経済的な優位がモノをいう現代社会では、たまたま高く評価したのが富豪かどうかでそれだけ変わるのだ。美術的価値は必ずしも市場価値にはならず、むしろ相反する可能性すらある。以前に比べて多くの人が多くのメディアで様々な美術作品に触れられる今の時代、拝金主義とは別の本当の評価が求められるのでは・・・と、この展覧会はあえて当時のシチューキン、モロゾフ二人の視点を強調することで教えてくれているような気がしてしまった。う〜ん、こんなこと書くとまたひがみっぽくなっちゃうかなぁ・・・。

文責: 桂田祐介 2006年2月12日