2005年9月17日

ネイチャー&アート ガウディ、ミロ、ダリ

豊田市美術館での愛知万博を記念した特別展。主催は豊田市美と万博のスペインパビリオンということで、やはり3年後のサラゴサ万博をひかえたスペインの力の入れ様が推し量られる。これはカタルーニャ生まれの20世紀を代表する三人ガウディ、ミロ、ダリの小規模な展覧会で、カタルーニャを訪れた身として個人的にとても身近に感じる。ずっと行きたいと思っていたのだが、またも会期ぎりぎりに滑り込むような感じになってしまった。

この企画展スペースに入ってすぐ、暗幕に遮られる。その向こうの小さな暗い部屋で映像が流れている。この特別展でとりあげられている三人それぞれにまつわるカタルーニャの自然が延々と映し出されている。穏やかながら地中海に面しピレネー山脈を背後にかかえる風土を体感できる内容。客席に相当するところにカホンのような箱がいくつも置いてありそれに腰掛けて鑑賞する。なるほど、万博のスペインパビリオンでの展示に通じるスタイルかもなぁなどと思う。(おそらく)15分ほどのこの映像を見終えてから別の暗幕を越えて展示室へ移ると、豊田市美らしい白い壁で暗室から出るとまぶしい。もしかして自然の生命力を体験させる演出なのだろうか。向かって左側と向かいの壁面にダリ、中央にガウディ、右側にミロの作品が展示されていて、その細長い部屋の右奥から隣室にさらにミロ作品が続く展示。
ダリは初期から晩年までダリにしては割とラフに描いた作品が並ぶ。個人的にはあの幻想世界と緻密な筆致(とそれによる古典絵画へのリスペクト)が好きなのでちょっと物足りなかったのだが、銅板に油絵で描いたものなどもあり、その金属光沢の残る画面は新鮮だった。ガウディは建物の扉やら柱なんかがそのまま来ていて驚いた。バルセロナに行った時にはカサ・ミラは外からしか見なかったのだが、その有機的な扉の存在感には改めて感動。他にもガウディの手がけた調度品が多く展示されていて、その植物由来のフォルムはとても隣国フランスのアール・ヌーボーを想起させるのだけれどもガウディ独自の芯の通った造形美を感じる。そして、ミロも初期の風景画からオートマティスム絵画とも呼べる例のシュルレアリスムまで沢山展示されていた。アンドレ・ブルトンの自動記述を絵でやるとこうなる、ということを最も率直に絵画でやったのがこのジョアン・ミロだというのは頭で知っていても、実はイマイチ好きになれなかった画家だ。しかし初期の風景画から続けて観るとこの人も自然に対する敬意を根底に持っていたのかも・・・と思った。部屋を移ってからは透明のパネルにミロの作品が挟まれた形の展示で、その展示方法がとても気になる。これならひとつひとつ額装しなくても沢山展示できる・・・大量の紙の作品を個展で展示するにはいいかもしれないなどとついつい打算的になってしまった。
それにしても小規模ながら三人の郷土の自然に対する愛情と敬意を感じさせる展示だった。ダリがもう少し充実していればもっとよかったのだが・・・。

この特別展のあとは常設展を観た。現代美術はチョット苦手なのでこの豊田市美でのいつもの楽しみはシュルレアリスムと象徴主義の展示とミュージアムショップぐらい。この日はもうひとつの企画でヤノベケンジのキンダガルテンというのをやっていたので、そちらものぞいて来た。
腹話術人形の「トらやん」がいろんな形で展示してある。タイトルどおり子供が遊べる空間も用意してある。ユーモラスな造形に社会的なテーマを重ねる表現で評価の高いヤノベだが、現代アート特有のなんでもありなところと奇をてらったところがイヤで食わず嫌いしていた。この企画でも、戦争などの時代の暗部をやや露骨に表現するところに軽薄さを感じてしまって、当事者の視点ではないうえに日本特有の生温さがあってはじめは退屈だったのだが、巨大なトらやんが動いて火を吹くのには驚いた。泣き出す小さな子供もいた。何かをしゃべり火を噴く音が何度か聴こえて係員に尋ねたら10分置きぐらいに突然火を噴くとのこと。しばらく待って火を噴くのを見たのだが・・・面白い! 巨大なトらやんを発泡スチロールと金属板で作ってしまったのも凄いが、それを動かして火を噴かせてしまう仕掛けを用意しているのだ。単なるオブジェと違ってあの火には戦争のリアリティがあるし、ものの多面性というか本音と建前のような裏表のある社会をしっかり風刺している。はじめてトらやんというキャラクターの持つ意味に触れた気がして彼の理念に近づけたような気分になった。あと、ちょっと意外だったのがヤノベ氏の計画段階でのスケッチの数々。氏については殆ど何も知らないのだけど、もしかして手塚治虫ファン? と思わせる描線で、大変嬉しくなった。
でも、やっぱり現代アートは追っかける気になれない。たまにこうして楽しませてもらうぐらいが自分にはあっているような気がする。

文責: 桂田祐介 2005年12月26日

2005年9月3日

ルーヴル美術館展 -19世紀フランス絵画 新古典主義からロマン主義へ-

この展覧会は、横浜から京都に巡回したルーヴル美術館の所蔵品による特別展で、副題の通り19世紀のフランス絵画が集められている。19世紀フランス絵画といえば新古典主義が主流のアカデミーに対して印象主義が対抗した時代。このわかりやすい二項対立の文脈で語られることの多い時代だけれども、よく考えれば新古典主義とロマン主義も真っ向から対立していたではないか。個人的には今まであまり強い関心を持っていなかった時代なのでこの企画は的がはっきりしていて面白いのかもなぁなどと期待した。ポスターにはアングルの絵が大きくあしらわれている。

展覧会は歴史画、時事的絵画、オリエンタリスム、動物画、肖像画、風景画、風俗画とまんべんなく展示されていて、そのボリュームにさすがはルーヴル、とまだ見ぬパリの美の殿堂に想いを馳せる。会場は混雑していたせいもあって順路通りに見られなかったので自分勝手な見方をしてしまった。それで、企画側の意図がいまいち汲み取れなかったのだけど、あまり新古典主義とロマン主義の対立という構造は感じなかった。この展覧会で個人的に感じたことの結論を先に言うと、近代のフランスが経験した時代・世相の変化が絵画に影響を与え続けたことがとても印象的だった。そんな展示内容の中でアングルの作品はかなり浮いた感じだったものの、調和した美の追求と写実の視点が混在する中でとても象徴的な存在だったのだと認識した。やはり権威になる人はそれなりの理由があるのかも・・・と思わされた。ええと、まとめきれないのだがとりあえず観た感想を以下にだらだらと書くことにする。

まず、いかにもなジェラールのナポレオンの肖像やグロのカール5世の肖像。新古典主義と言うとルネサンス(もっとさかのぼってルネサンスが規範にした古代ギリシャも)を規範にした絵画という話だが、確かにナポレオンにはラファエロあたりの肖像画の雰囲気がある。しかしダヴィッドの「マラーの死」はその構図や陰影はバロック的だし「シャルル=ルイ・トリュデーヌ夫人」はもっと新しい時代の感じがある。新古典主義とは言うけれど(これって評論家の命名?)実際は脱ロココみたいな曖昧な立場だったのかもなーと思いながら観た。それが英雄ナポレオンのおかげで権威付けが必要になってアカデミスムになったのかなぁと。
ロマン主義ではジェリコーの「賭博偏執狂」という発狂した老女の肖像にビックリ。なるほど美術史的には新古典主義の整った絵画世界に対する挑発なんだなぁと改めて実感。それにしても鬼気迫る迫力がある。ジェリコーと言えば「メデュース号の筏」ぐらいしかよく知らなかったのだが、この老女の肖像や自画像(なんとなくカッコつけて斜に構えてる)からレンブラントのような人物描写を目指したのかもしれないなぁなんて想像した。ええっと、ロマン主義ってなんでロマン主義なんだっけ?! 絵を見るうち美術史的な部分がだんだんどうでもよくなってしまった。

で、新古典主義に戻ってアングル。新古典主義とはいえダヴィッドの時からは血なまぐさいフランス革命を経ているのでより調和のとれた穏やかな絵になっている。いわゆるアカデミスムのおカタイ絵画。個人的にはこのアカデミスム、崇高で理想主義的な側面がある反面、権威主義に走りブルジョワ趣味に迎合した卑俗な側面もあって、技術的にはとてもハイレベルなのに絵としてはあまり好きになれない、そんなところがあった。アングル作品は「泉」「トルコ風呂」「スフィンクスの謎を解くオイディプス」が来ていて中でも「トルコ風呂」は本邦初公開ということでポスターにも使われていた模様。
そのアングル作品だけど、実はとてもとても意外だったのが画肌。勝手なことにあのアカデミスムのドンというだけで磁器のような滑らかな画肌と筆致を消した写実表現に違いないという単純な先入観を持ってしまっていたのだが、「泉」を間近で観て驚いた。もしかして制作直後は違ったのかもしれないが、まるでマチエールには無頓着だったのではないかと思えるほどに粗かった。しかし遠目に見るととても理想化された美しい裸婦が描かれていて不思議な感覚がある。そこで思ったのは、この理想的な裸婦の存在感はその内なる曲線にあるのではないかということ。内なる曲線というのは、言い換えれば、力の方向とでも言うべきか人体が一体として機能するために必ず連続して働く流れで、これは骨折でもしない限り遮断されることのないエネルギーの曲線(我ながらわかりづらい説明だなぁ・・・)。この絵を観ているとその内なる曲線が裸婦の中をきれいにS字を描いてつま先から頭まで伸び、両腕が瓶を挟んできれいに結ばれているのがわかるし、そのエネルギーの流れは瓶からの泉の流れに沿って足元に還元されているのを感じる。思わずあの「グランド・オダリスク」で背骨や頸椎を多く描いていると言われていたのを連想してしまった。アングルが求めた理想美はその存在感の背後のエネルギーの流れで、それを自然につなげる為のデッサンだったのではないか・・・そう思うと今までしっくりこなかったアングルの革新性を認識できたような気がした。
もちろんこの後「トルコ風呂」を観て、中央の背を向けた裸婦だけでなく猥雑に描かれたまわりの裸婦たちの曲線にも生命感を宿す為のアングルの筆力を想像した。しかし、この絵のもつ異様な陰鬱さはエロティシズムまでその生命感の表現に取り入れているようで、極端な飛躍を承知で言うとクロヴィス・トルイユにも通じる世界だなぁと。作品ラベルを観て気づいたがこの絵を描いたアングルはもう晩年、80歳を越えようかというオジイチャンだ。凄いオジイチャンである。アングルは19世紀のピカソだった?! もしかして古くはミケランジェロだって同様だったのかも・・・などとやや想像が暴走気味になってしまった。

新古典主義のアカデミスムはピコやジェラールの「プシュケとアモル」などのブルジョワ的な画題で滑らかな画肌になり、ロマン主義はドラクロワの割と奔放な画面(「母虎と戯れる子虎」を見る限りもしかして猫好き?)やコローの風景画に発展して行った様子を眺めた。新古典主義もロマン主義も表向きはどうだか知らないが、なんだか画家たちは互いにいろいろ意識しながら多様化して行ったのだなぁと思わされた。
アカデミスムかどうかなどは別にして絵として見応えのあるものも結構あって、上に触れたもの以外ではロベール=フルーリの「ヴァティカンの宗教裁判所に引き出されたガリレオ」、ドラローシュの「若き殉教の娘」と「ナルシス=アシル・ド・サルヴァンディ伯爵」、ヴェルネの「クリシーのバリケード - パリの防衛、1814年3月30日」、フロマンタンの「平原で休息するアラブの騎士」、フランドランの「若い娘の肖像 - 若いギリシャ人の娘」、コローの「カステルガンドルフォの思い出」、ボディニエの「イタリアの婚礼の契り」、タサエールの「アトリエの中」などが印象的。あと、風景画と風俗画では当時のヨーロッパの様子がとても今のアフリカの記憶にだぶってそれも大変興味深い所だった。

実はこの一年、父が京都市美術館の友の会に入っているので特典の招待券や図録の割引券などがあり、それで珍しく妻とだけではなく父とも一緒に出かけた。いつものことだがそれぞれがばらばらに各自のペースで観賞し、混雑していたので殆どちゃんと観ずに素通りしてしまったものもあれば後でもう一度観に戻ったものもある。例によって同行者を待たせてしまったうえにどうせ五十歩百歩とばかり京都市美のコレクション展「写生の時間」も駆け足で観て来た。竹内栖鳳や北脇昇などの日本画家が本画とは別にプライベートで気楽に描いたと思われるスケッチが多く展示されていて、その画題も身近なものばかり。とくに野菜や果物を描いたものが多くて、なんだか自分の「一日一画」に重ねて観てしまった。

文責: 桂田祐介 2006年1月25日