2005年8月30日

ゴッホ展

東京、大阪と大評判だったゴッホ展が名古屋に巡回したのは7月26日。その初日はちょうどケニア渡航のため日本を離れる日で、この時は別件のシリア渡航がいつになるかわからずもしかして帰国せずそのままケニアからシリアに移動するかも・・・なんて話もあった。そのため当初ゴッホ展はなかば諦めていたのだけれど、シリア渡航が諸々の事情で来年度まで延期になってしまったこともあり、ケニアからの帰国後にめでたく行くことが出来た。うん、これはゴッホ展を観ておきなさいということだな、きっと。

噂の混雑を恐れて平日の昼間という時間帯を選んだのだが、やはり夏休みの終盤とあって家族連れでごった返していた。愛知県美術館は芸術文化センターの10階なので通常チケットもその10階で売られているのだけど、このゴッホ展は2階(なのかな?)のエントランスに特設券売所が設けられていて、専用の待ち行列用レーンが用意されていた。まるで万博のパビリオン。でもそれほど待たずにチケットを買うことが出来たのはタイミングがよかったということなのかな。東京展の芋粗い状態は数多の美術ファンの皆さんのブログやホームページの報告で知っていたけれど、改めてゴッホの人気を思い知った。しばらく日数が経ってからだがBBSにこのゴッホ展の感想を書き込んだので、とりあえず以下にそれを引用。

2639. ゴッホ展の感想。 桂田  2005/09/12 (月) 01:08

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8/30日に愛知県美術館のゴッホ展、行ってきました。クレラー・ミュラー美術館とゴッホ美術館の両館からの大量の貸し出しということで、なるほど多くの良質なゴッホ作品とその周辺の絵画が展示されていて、とても見応えがありました。ゴッホがミレーやドービニー、点描主義、印象派、浮世絵などから影響を受けながらそのスタイルを変えてきたのはよく知られていますが、それらを再確認できたのはもちろん、かえって変わらないゴッホならではの一貫した視点とかセンスが見て取れたのが収穫でした。
展示作ではニューネン時代の「織工」の連作、パリ時代の「古靴」、点描をとりいれた「レストランの内部」、アルル時代の「夜のカフェテラス」、晩年の「サン・レミの療養院の庭」「夕暮れの風景」あたりが非常に印象的でした。あ、初期のあの聖書の実物が展示されてあったのも実にオドロキでしたが・・。実は、10年ぐらい前にあったゴッホ展では過剰な筆致と色彩と描写のぎこちなさが目についてあまり良い印象がなかったのですけど、今回もこれらの(私にとっての)マイナス要因はやはり気になる部分がありましたが、モチーフや構図どりに共感できるものが多くて、それをなぜこのように描いたのかと想像するのが楽しかったです。どの時代の室内や風景、静物を描いたものでもその背後になんとなくストーリーを感じさせるところがあるのはきっと人物画と同様の視点があったのでしょうね。特にアルル以降の作品に感じますが、彼は自分の目で見た自然や人物の存在感を再現しようとしつづけていたのではなかろうかと思います。
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2641. ゴッホ展の感想の続き。 桂田  2005/09/12 (月) 01:54

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それから、ちょっと気になったのが世間のゴッホ観は果たしてそのとおりなのか? ということで、例えばその筆致から「炎の画家」なんて例えで、心の赴くままに感情を絵に表している、従来の写実とは違う表現を挑発的に発表しているなんて言われてますけど、実はゴッホはしっかり「写実」しているように思います。奇をてらって新しい表現をしているんではなく、彼なりに写実をした結果ああなったと。なんと言いますか、見えるものの本質の描写という点では彼の少し前のクールベに近いものを感じました(性格は全然違いますが)。その点で浮世絵を好んだというのも、対象の造形面での抽象性がより明確になっている、すなわち対象の本質の一つの表現法だと評価してのことなのだろうと思います。ゴッホが描いた浮世絵のトレースも2点展示されていましたが、そのトレースの行為自体からも、トレース紙の上の細かい筆跡の強弱などからも、浮世絵の造形性に対する興味がそれこそ透けて見えているに感じました。浮世絵でこうですから、宗達を見ていたらどうだっただろう・・・なんて想像をしてしまいます。

あ、またもや脱線気味になってきたので、ついでにもうすこし脱線させてください。これは私の絵画観でもありますが、絵を描く側も見る側もプリミティブな欲求としては具象的な写実が第一に来ると思うんですが、その中で対象物に潜む抽象性をどれだけ見通して汲み取れるか、どう描き出せるかが絵の醍醐味だと思っています。この視点はルネサンス以降の具象絵画でもずっと追求されて来たことで、20世紀前半の抽象画はこの抽象性を追求し尽くした一つの形だと私は理解しているのですが、その点では日本ではずっと前に琳派が同じことをしていましたし、その後の江戸時代の絵画でもその視点は維持されていると思います。浮世絵にも色濃く形の抽象性への描写が反映されていることを思えば、写実に親和性のあったゴッホが夢中になったのは当然だろうと思いますし、それは異国への憧れよりも絵画としての衝撃が勝っていたのだと思います。そう思って浮世絵に触れてからのゴッホ作品を見ると実に冷静に対象を捉えているのが想像できてとても興味深かったです。私にとってゴッホは情熱の人というよりも冷静な観察者としての印象が強く残りました。そのあたりで構図やモチーフ選びに共感できたのが個人的になんとも嬉しいことでした。

この展覧会には最近の企画展らしく副題があって、「孤高の画家の原風景」とある。なるほど、この書き込み中に触れたとおりゴッホがその生涯を通して影響を受けてきたものと彼を取り巻く風景、その時の心象が透けて見えるような充実した展覧会だった。しかし、わざわざ副題をつけなくても十分に伝わることだとは思うのだけど・・・この美術展の企画にも流行があるのだなぁなどと思う。あと、展示は人だかりが出来ていたのは仕方がないのだけど、ゴッホ作品がレモン色のボード上に展示されていたのには驚いた。いつも単色の壁面に展示されているのを見慣れているからだろうか、それがやけに気になってしまった。
ともあれ、この書き込みのあとのやりとりでゴッホ展自体からはずれてしまうのだがリアリズムについてちょっと踏み込んだことも書いたのでそれも一部抜粋。
2643. お粗末リアリズム考。 桂田  2005/09/14 (水) 19:17

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ゴッホ展の感想ですが、改めて読み返してみると展覧会の感想というより私の中のゴッホ像みたいな話になってますね・・・ちょっと大胆すぎる書き方をしてしまったので、熱心なゴッホファンの方には不評かも、なんて心配しておりました。美術史家や美術評論家の先生方には一笑に付されるかもしれません・・・。

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造形的な普遍性としてだけ見ると絵画に具象・抽象の分類をするのは無意味かもしれません。私はデッサンと細かい描写が好きですので結果的に具象になっていますが、対象の存在感とか画面のバランスとかって抽象性も含めて見ないことには描けないと思います。
私なりの解釈ですが、抽象表現の本質って描写の枝葉をそぎ落として必要最低限の情報を残して表現していくものだと思っていまして、そう意識して見ると西洋の古典絵画でもそういう視点を感じますし、20世紀のピカソやマティスのすごさもひしひしと感じます。日本の琳派なんてまさに! です。抽象性を意識した具象絵画も具象を廃した抽象絵画もどちらもリアリズムには変わりがないのですね。
と、ここまで書いて思ったのですが、私の興味はやっぱりリアリズムに尽きるのかもしれません。

この日は愛知県美術館のあと栄をほっつきあるいて別の展覧会もはしごしたのだが、そちらについては思い出せればまた後日あらためてアップする予定。

ついでに、このゴッホ展にちなんで「古靴」のオマージュとして自分の靴を描いた。折角なのでここでも紹介。一日一画アートギャラリーにて(両方同じ絵)。
文責: 桂田祐介 2006年1月31日