2005年11月7日
巨匠デ・キリコ展
松坂屋美術館で開催のジョルジョ・デ・キリコの回顧展。率直な感想としてはあまり良いものではなかった。これは2001年の京都での展覧会が衝撃的すぎて、期待が大きかったからなのかもしれない。
今回の展覧会は主に後半生の作品が多くて、かの形而上絵画の作品群も後年に描き直したものばかりらしくて、作品内に記入された年号がかならずしも実際の制作年と一致していない。展覧会では詳しく言及されてないけど、古典絵画にモチーフをもとめて失敗した後にスランプに陥ったデ・キリコが打って出た暴挙なんだとかって認識もされているそうで。ええっと、これは新日曜美術館で言っていた内容だっけか。うろ覚え。
でも、これ形而上絵画だからねぇ。画中の年号ですら形而上学的な存在でしかないという意味なのでは? と思わされてしまう。
まぁ、それはさておき、展示作品ではやっぱり「ヘクトルとアンドロマケ」「不安を与えるミューズたち」などの形而上絵画が焼き直しとはいえ独特の神秘的な詩情をたたえている。ただ、筆致や画面表面の処理がまことに半端で見苦しい。でもそこは形而上学と言われれば黙って受け取るしかないという、なんだか狐につままれたような気分にもなるなぁ・・。
そう言ってしまえば元も子もないんだけれども、ホント、この人の画面は塗りが稚拙と言っていいぐらいこなれていなくて見ている側がなんとかしたいぐらい。まだメタフィジカのシリーズなら気にならないけど、古代美術やルネサンスをネタにしたものは彼の技術的な不器用さを露呈しているようだ。後年おそらくは思い悩み、周囲の評価も陰っていたのは仕方ないのかも・・・と思える。それでも、絵画に露骨に哲学を持ち込んで物の定義を問い直したことの20世紀美術における貢献は凄いと断言できる。直後に続くシュルレアリスムはもちろん、表現主義から抽象へとつづく現代アートも、もしかしてデュシャン以上に重要な存在なのかもなーとも思う。
2001年に京都で観たデ・キリコの回顧展ではもっと初期からの作品が来ていたと思うけど、その時はちょっと衝撃的で、自分にとっては形而上学という哲学的な用語がはじめてしっくりと理解できた(気になった)絵画世界だった。日頃絵を描いていると、自分の描く画面とモチーフの対象には描き進めれば進むほど掴みどころがなくなると言うか、知覚とモチーフに開きを感じてしまうことがあって、それをわかりやすく示された感じがした。我々が知覚するありとあらゆる概念の習慣的な認識は個人の体験に基づいた恣意的な存在なのかもしれなくて、こうした知覚できる概念はすべて非現実的な存在であると。デ・キリコが画面に象徴的に封じ込めた遠近法を無視した光と影、古代遺跡に象徴される時間、あらゆる空間などは、まさに形而上学を視覚化した記念碑的な作品群だと思う。あの2001年の展覧会の後に買ったiBookのハードディスクのボリューム名を「Metaphisica」にしたりと、我ながらこっぱずかしいほどのハマり様だった。でもほら、コンピュータの中ってデスクトップとかフォルダやファイル、ゴミ箱の存在からその機能まで形而上的だと思いませんか?