2005年11月23日
レオノール・フィニ展
紅葉真っ盛りで快晴の白川公園には大勢の人。しかし名古屋市美術館は思いのほか入場者がいなくてチケット売り場も閉鎖中。館内の展示室前に座った女性からチケットを購入する。ちょっと変わった配置で最初の展示室はむかって左側の行き止まりの部屋。案の定係員の方がこちらからどうぞと案内してくれる。1階にトリエステ時代、シュルレアリスム、鉱物の時代と舞台衣装が展示されていて2階にエロティシズムと円熟期の作品群。以下、拙BBSに11/25に投稿した感想を抜粋。
2997. レオノール・フィニ展 桂田 2005/11/25 (金) 01:00
23日にただいま名古屋市美術館で開催中のレオノール・フィニ展に行ってきました。東京、大阪、群馬とまわって名古屋が最後の巡回地です。
名古屋市美のページ(↓)
http://www.art-museum.city.nagoya.jp/
もう少し詳しい、Bunkamuraのページ(↓)
http://www.bunkamura.co.jp/museum/event/fini/
一言で言うのは難しいのですが、レオノール・フィニというエネギッシュな表現者の全貌とその精神に触れられる良質の展覧会だと思いました。初期から晩年まで網羅されていましたが、やはり個人的にはデペイズマン的なシュルレアリスムの影響の強い時代の「移り行く日々I、II」「手術I」「二つの頭蓋骨」あたりが気に入りました。肖像画はその人の内面にも迫る迫力があって、フィニの鋭い観察眼、描く時に感情移入していたに違いないと思わせる丁寧な筆致が印象的でした。
その後鉱物の時代と呼ばれた独特の画風に変わりますが、この「鉱物」的なマチエールはエルンストがやりはじめたデカルコマニーですね。この「鉱物」に溶け込む魑魅魍魎が奇妙な幻想性を醸し出していますが、オートマティスムの手法も借りて意識の奥底を表現したかのような実にシュルレアリスティックな作品群です。後に男性社会への批判を込めたジェンダー観を表出したエロティシズムの時代を経て円熟期へと展覧会の構成が進みますが、舞台美術に携わったこともあって全体的に装飾的な傾向が強めながら過去を咀嚼している感があります。後半では私はやっぱりシュルレアリスティックな「夢から醒めても」「大いなる川渡り」が気に入りました。
あと、某所の前情報から薔薇色の諧調が美しいとのことで注目していたのですが、なるほど、色に深さがあってフィニのオリジナリティのひとつだなぁと納得いたしました。シュルレアリストと呼ばれることを拒否していたフィニですが、全体的に見て最もシュルレアリスムの本質をついた人だったように思います。
ええとそれから、フィニはシュルレアリストはおろか画家や作家としての肩書きも拒否して職業はレオノール・フィニだと言っていたというエピソードにはものすごく共感できました。表現者たるもの、集団に埋没してセクト化してしまっては個としての表現力・発言力はありません。確固たる個人でありつづけたフィニがこうして注目されている事実にも感動しました。私もさんざん変わり者扱いされていますが、ちょっと勇気づけられた感じがします。
いつもどおり常設展ものぞいてくる。抽象の大作を横目にエコール・ド・パリとメキシコ・ルネサンスの絵画を鑑賞。ここのメイン、モジリアニの「お下げ髪の少女」はもちろんだけど、モイーズ・キスリングとマリア・イスキエルドの作品が好き。イスキエルドは左利きだったりして、などとつまらぬことを考える。常設のチケットで見られる平田実の写真展も見る。60年代の前衛運動のドキュメンタリー? 今思えば日本も熱い時代だったのだなぁと。
2005年11月12日
近代日本洋画への道 -山岡コレクションを中心に-
滋賀県立近代美術館にて。秋風が冷たい。来客が多くてなかなか自動車を停められなかった。久しぶりに来たけどこの時期は美術館へのアプローチの池がとてもきれい。
特別展は明治時代の日本の洋画にスポットをあてた展覧会。高橋由一の「鮭図」が白眉。
山岡コレクションてのはヤンマー(の前身)の創業者による近代日本洋画のコレクションなのだそうな。やはり高橋由一の作品が多くて、他には山本芳翠、青木繁、中村彝、中村不折、黒田清輝、浅井忠・・・ときりがないほど明治の洋画の蒼々たる名前が並ぶ。この時代の洋画って、その、油絵の技術が西洋に比べてはるかに歴史が浅いせいなのか、日本画の影響なのか、とにかく薄塗りで定着感が乏しい。そのせいもあってなんとなく脂っこさがまとわりついてるようなそんな湿り気も感じてしまう。嫌いではないけど、これだけ集まると胸焼けしてくるぐらい(註: この日は実際に体調不良だった)。そんな中、英国人のチャールズ・ワーグマンの作品が何点もあったけど、西洋人の視点と安定した画面が印象的で当時の日本の絵描きたちに与えた影響が想像できて面白い。あと、エドワルド・キヨソーネの木炭画の技術にはびっくり。うーん、木炭何種類ぐらい使ってるのかな・・・。ワーグマンをはじめとする西洋の画家に学んだ日本人の作品では二代目五姓田芳柳の「人形の着物」がピカイチだった。あ、あとちょっと系統は違うけど山下りん。
それから、内容とは別にもうひとつ。図録が後半が単色刷りってのはちと納得いかんなぁ・・・。こっちゃ作品が観たくて買ってるのに。
ほかに、館内のギャラリーでたまたま開催中だった「湖国を描く絵画展」という公募展(今年で10回目らしい)をのぞいたけれど(実家を離れて10年以上になるので全然存在を知らなかった)、展示作品中に知った名前は見当たらず。50号までみたいだし、もしかして今の膳所の生徒さんは出品したりしてるのかな? 11月と言えば県展の季節。ああナツカシヤ。
2005年11月7日
巨匠デ・キリコ展
松坂屋美術館で開催のジョルジョ・デ・キリコの回顧展。率直な感想としてはあまり良いものではなかった。これは2001年の京都での展覧会が衝撃的すぎて、期待が大きかったからなのかもしれない。
今回の展覧会は主に後半生の作品が多くて、かの形而上絵画の作品群も後年に描き直したものばかりらしくて、作品内に記入された年号がかならずしも実際の制作年と一致していない。展覧会では詳しく言及されてないけど、古典絵画にモチーフをもとめて失敗した後にスランプに陥ったデ・キリコが打って出た暴挙なんだとかって認識もされているそうで。ええっと、これは新日曜美術館で言っていた内容だっけか。うろ覚え。
でも、これ形而上絵画だからねぇ。画中の年号ですら形而上学的な存在でしかないという意味なのでは? と思わされてしまう。
まぁ、それはさておき、展示作品ではやっぱり「ヘクトルとアンドロマケ」「不安を与えるミューズたち」などの形而上絵画が焼き直しとはいえ独特の神秘的な詩情をたたえている。ただ、筆致や画面表面の処理がまことに半端で見苦しい。でもそこは形而上学と言われれば黙って受け取るしかないという、なんだか狐につままれたような気分にもなるなぁ・・。
そう言ってしまえば元も子もないんだけれども、ホント、この人の画面は塗りが稚拙と言っていいぐらいこなれていなくて見ている側がなんとかしたいぐらい。まだメタフィジカのシリーズなら気にならないけど、古代美術やルネサンスをネタにしたものは彼の技術的な不器用さを露呈しているようだ。後年おそらくは思い悩み、周囲の評価も陰っていたのは仕方ないのかも・・・と思える。それでも、絵画に露骨に哲学を持ち込んで物の定義を問い直したことの20世紀美術における貢献は凄いと断言できる。直後に続くシュルレアリスムはもちろん、表現主義から抽象へとつづく現代アートも、もしかしてデュシャン以上に重要な存在なのかもなーとも思う。
2001年に京都で観たデ・キリコの回顧展ではもっと初期からの作品が来ていたと思うけど、その時はちょっと衝撃的で、自分にとっては形而上学という哲学的な用語がはじめてしっくりと理解できた(気になった)絵画世界だった。日頃絵を描いていると、自分の描く画面とモチーフの対象には描き進めれば進むほど掴みどころがなくなると言うか、知覚とモチーフに開きを感じてしまうことがあって、それをわかりやすく示された感じがした。我々が知覚するありとあらゆる概念の習慣的な認識は個人の体験に基づいた恣意的な存在なのかもしれなくて、こうした知覚できる概念はすべて非現実的な存在であると。デ・キリコが画面に象徴的に封じ込めた遠近法を無視した光と影、古代遺跡に象徴される時間、あらゆる空間などは、まさに形而上学を視覚化した記念碑的な作品群だと思う。あの2001年の展覧会の後に買ったiBookのハードディスクのボリューム名を「Metaphisica」にしたりと、我ながらこっぱずかしいほどのハマり様だった。でもほら、コンピュータの中ってデスクトップとかフォルダやファイル、ゴミ箱の存在からその機能まで形而上的だと思いませんか?